私のエロスが向かう場所――また歯医者に行こうかな――

スナドリネコ

NABAのスタッフルームの片隅で、ひざを抱えてももえちゃんに言った。「あーあ、ほんとにね、男切れちゅー感じだよ」って。「こんなことって、中じゃ絶対言えないんだよね」
中っていうのは、やどかりのミーティングのこと。私って、こっち側ですごーく楽に息ができる。ここで、やっと、”何でもありでいいじゃん”て自分に言ってあげられる。思春期やり直しだと、ワルぶってみることができる。不良してたばこも吸ったし、自傷もやった。
「中でね、『自傷した』って言ったら、空気固まっちゃって、みんな、あっち向いちゃうんだよ」「ははは……それは悲惨だね。ゃったかいがないよね」「いい男いないかな……」なんて言うと、「危ないよ、また共依存の人と、くっつきかねないよ」なんて言われたりするしね」
「失礼だよね、共依存だっていいじゃないね。何も無いよりずっといいよね」
「あーあ、ほんとにね、男の人にケアされたいの。また歯医者にでも行こうかな…。」
「なーに?それ?」
私って、小・中・高って、私立の女子校に入れられていたんだけど、中学の時に新任の男の先生に、スルスルってすり寄って、ほかにもそういう子はたくさんいて、私だけが特別ってわけじゃないんだけど、クラブの顧問だったから、高校卒業するまで、やっぱり目をかけてもらったし、その人ちゃんと私を受けとめて、認めてくれていた。その後は、ずーっと、男の絶対数が多い所にばかりいたから、いつもだれかしら側にいたし、だめになりそうな気配になると、「僕でよかったら、話を聞くよ」なんて、寄ってくる人が必ずいた、というよりは、私がダミーとして引き寄せておいたんだよね。
男っていっても、SEXじゃなくって、プラトニックに依存したいんだけれどね、私。年齢が上がると、それだけってわけにいかなくて、いらぬ代償も随分払ってきたよ。ほんとに欲しいのは、ハグどまり……これって、私の幼児体験や、父親との関係に何かあると思うんだけどね……。

結婚すると、スナドリさんの奥さんにさせられ、子供生まれたら、○○ちゃんのおかあさん。ネコはネコでいられなくなる。いっしょに遊んでいた男の子たちも、結婚したりすると、奥さんに気兼ねして、年賀状すらよこさなくなる人さえいる。何で、日本ってとこは、結婚すると、男と女は友だちでいられなくなるんだろうね。ってわけで、ほんとに周りから忽然と男が消えてしまった。

それで、歯医者だったよね……このあいだまでかかっていた歯医者なんだけど、ちょっと雰囲気のある男でね……予約の電話でね、声にひかれて、いいかなって行きはじめたんだ。歯医者っていいんだよ、椅子がベッドで、クライアントの私は、無力な子供のように横たわって、ぜーんぶお任せで、ゆだねるって感じ。しかも彼って、アメリカで勉強してきで、今風だから、クライアントはお客様で、絶対に医者面して偉ぶったりしない。あくまで、優しく、ていねい。そして、治療計画と今の治療についてちゃんと説明してくれる。
横たわったままで私は、彼の腕と胸で保護された空間の中で、口を聞け、のぞき込まれる。私の内側をつらぬく、器官の先端であるところの口を大きく開けてね。今まで一番親密だった誰よりも、もっと親密で淫廃な関係に思えない?奥歯をけずるために、彼の指が口角をさらに押し広げて、私の唇は、その指を感じる。彼はのしかかるように、私に集中する。痛みを与えないように、神経を集中させる。私の顔のわずかな歪みや、痛かったら上げる約束の、私の左手に注意を払いながら、ドリルの先端を私にあてる。「大丈夫?がまんできます?」とささやきながらね。今、この瞬間は私だけのために、彼はいるの。……そんなに、緊張しなくていいのよ、だって、私って痛みに対するトレランス(忍耐力)巽様に高いんだから……なんて言うとかっこいいけど、それって、鈍麻なんだけどね。
一度なんて、黙ったまま、私の手に何か握らせるの。心臓、パクパクつてなったよ。「それ、これからはめる金属。けつこう重さあるでしょ」だって。おつかしいでしょ。それって、ちょっとあぶないんじゃない?」って思う事もあるのよね。麻酔に対して異様に神経質で、注射の針さすたび、彼の方の体が、ビクンてなるの。注射する前にプレ麻酔っていうか、綿球に染み込ませた薬をしばらくあてであるから、本当に痛くないの。だから、そのビクンで針がささったことがわかるの。「あなたって、先端恐怖症?それとも、過去に、麻酔でしくじったことがあるの……?」って思っちゃう。そうして、あのすてきな声が私の名前を連呼するの。「スナドリさん、だいじようぶですかフスナドリさん?」って何度か繰り返されるの。初めての時は、そりゃあ驚いたわ。私は目を泳がせて、合図をする。
「大丈夫、意識はあるよ」って。ああ、もっと呼んでよ、どうせなら、ファースト・ネームで呼んでほしいな。
「ネコ、だいじようぶ?ネコ?」って、くりかえして!
もしもね、私が意識が遠のいてしまったふりをしたりしたら、あなたがどんな反応をするか、すごく興味あるのよね。いつか、私が急患で時間外の診察室に入れたら、絶対に聞くんだ。二人きりになれたらね。
「あなたは何を恐れているの?あなたの傷を話してよ。あなたのパパは、地元で古くから信頼を集める歯医者さん。あなたは、ママの大切な一人息子。何で外国の学校に行ったのフ日本で外されたりしたの?パパが病気でろくに診療できなくなってから、なんで近くの、乙この場所に開院したの?教えてよ。あなたが物語を語らなければ、これ以上は親密になれない。話してよ!私たちって多分同じ側の人間だと思うよ。一緒にダンスを踊らない…?」

……埋まらないことは、わかっているの。でも、こんなことを、夢想・妄想するほど淋しいんだよね、私って。関係性の噌癖あるよね、私。だから……また、歯医者に行こうかな……。

ももえちゃんと、話をしたのは、二~三ヶ月前、だっけ?「書いてね?」と言われて、やっぱり書いておきたかった。思いきり、はすっぱ(死語かもしれない)な文章で書いてみたくて挑戦してみました。

【ニューズ・レターNo.47:一九九九年 二月】

テレフォン・メッセージ-NABAの周辺で

玉川保健福祉センター・保健婦 遠藤厚子

こんにちは。保健婦の遠藤と申します。今回はどうしてもということで急に受けてしまったので、まだ何を話したらいいかよくわかりませんし、何が言えるのかな、とちょっと心配になっています。今日はまず保健婦という仕事がどういうものかということをちょっとお話した後で、自分自身がNABAの周辺にいて考えていることのお話をしたらいいかなと思っています。
保健婦というのは、どこの県にも町にも、多分村にも、絶対いる者だと思うんですけれども、ただ全ての保健婦が精神保健活動に関わっているわけではないというのが厳しいところです。私たちは精神保健活動の一環として依存症という病気につき合っているので、ご老人や赤ちゃんの相談を受けることを主としている保健婦には、ちょっと通じにくいのかもしれませんが、ぜひ皆さんの方から、保健婦の情報を集めてみて欲しいなと思います。行政の場にいる、相談する場所として、保健婦を使って欲しいと言いたいんですけれども、まだ相談を受ける機能として保健婦が十分に成熟しているとは私にも言い切れません。ただ少なくとも、どういうとごろに行ったら困っていることの相談を受けられるかということについて、保健婦は情報を持っていなければならないと思います。もし摂食障害について知らなかったら、こちらの方から教えてやるぐらいの気持ちで、まず連絡をとってみて下さい。
私個人としては、摂食障害、依存症、噌癖について、「知らない」で済ませるのは保健婦として怠慢ではないかと思っているものですから、ぜひ皆さんにもお願いしたいことです。自分自身のことで精一杯なのにと思われるかもしれませんが、どこでも相談できる場所を作る活動も、自分自身がいいかげんに生きるために、それから楽に生きるために必要な活動になるのかなと思っています。もしも摂食障害について知らない保健婦だとしても、少なくとも自分が苦しいんだということについての相談にはのってくれるはずです。誰かに相談しようと思うのは、かなり回復が進んでいると言えるかもしれませんけれども、誰に相談していいのかわからない時には、頭の隅に保健婦を覚えておいて欲しいなと思います。「相談を受けることを仕事にしている者にはわかるものか」とか、「公務員なんかにはやっぱり話せない」という人がいる反面、公務員だから安心して言えるという人も時々いらっしゃいます。
こう言つては何ですけれども、自分自身を信じていない摂食樟害の方が、同じ摂食障害を持った方に相談を持ちかけるのって、結構大変みたいですよね。まず信用していない自分と同じ病気の人のところにたどり着くまでに、足がかりというか捨て石でいいですから、保健婦に声をかけるというのは、ひょっとしたらちょっとの勇気でできるのではないでしょうか。そういう形で使ってもらって、そして回復している仲間と出会うということができたら、保健婦の仕事にも、もう少し広がりが出てくるのではと思っている次第です。
私自身は、仕事をしながら毎週ミーティングに出られる立場にありますので、自分のAC性に気づくとか、回復しようというふうにあがいていられるんですね。かなり恵まれている位置にいると思っています。でもやっぱり自分のことは職場の中だけでは振り返るのに無理がありますので、おかげさまで回復もせずに投げ出しもせずに、中途半端な今の状態が続いていると言うことができるかなと思います。これも、関係者の方が回復が遅い(※ー)ということの一例になっているのかもしれませんね。

今日、「NABAの周辺で」というテーマを無理矢理ひねり出したんですけれども、やっぱり私自身がどうしてもいつも「周辺にいる者」というふうに自分を自覚していると、改めて思いました。応援団に入ることについても、どうしても真ん中にはいられないな、という気持ちよりも、いつも自分は傍観者なんだなあというぼーっとした自覚と共に生きている時聞が多かったことに起因しているように思います。結構自分の生き方そのものと重なるものがあって、自分自身の問題を考えるということよりも、傍観者である自分の方を自覚して生きている方が楽だったということがあるのかなと思います。
何かあんまり自分が生きてなくっても、あがいている自分を端で見ている自分の方が冷静でいるから、そっちの方に気持ちを寄せるということで、あんまり熱っぽくなかったと思います。ただその熱っぽくないこと自体はそれほど苦しくはないんですね。苦しいとか自分が生きていないとは思えなくって、傍観者である自分の方が楽だというふうに今まで生きてきたのかなと、何だか今回のテーマを作った段階でやたらに反省的になってきています。
で、声も暗いですけども、基本的に考え方が暗いっていうのはわかつてはいるんですけれども、なかなか変わらないものですね。ただそれを変えようと思っているかともう一度考えると、あまり変えようとは積極的に思つてない自分に気がついたりします。とれが健康的じゃないと言われたらそれまでですけれども、今の自分でいいんだよって、積極的でなく思っています。積極的でなくっていうのは、もう「この自分が好きーつ」ていうのとは違うんですけれども、「これでもいつか」というぐらいの、わりとあきらめも含めて「もう今のでいいや」というのもありますね。ただこの「今のでいいや」って思えたのは、ミーティングに出るようになって、五年か六年たってからの気持ちですから、この仕事に就いたことがとても大きかったです。
そういうふうに思えた時に、NABAという会に出会ったわけですけれども、「もうひとりの自分」がNABAのメンバーになってるかなと時々思います。自分の気持ちというのも結構コロコロ変わってしまうところがあり、あまり意図的に選んだとは思いませんけれど「今これでいいんだ」という自分と、「いや、これもやらなくては、あれもやらなくては」と思っている自分っていうのは、ほとんど同時進行ぐらいでいたりしますよね。その時にどっちに転がるかっていうのは、本当に無意識ですね。そういう意味でNABAのメンバーに自分自身が見えてしまったり、とてもうらやましく思ったり、今自分が選んでこなかった自分を見てしまったりしています。だからこそ、NABAとか摂食障害について、他人ごとというふうに切っては考えられないところがあります。それで応援団に入ったところもあります。どちらかというとメンバーの方の積極性に引っ張り込まれてしまったということですね。
今、周辺にしかいないという自覚は、今の私にはほどほどのところだと思っていて、あまり自分が一生懸命にやってしまうと、それはイネイブリング(※2)になってしまうのではないか、知ったかぶりをしてやり過ぎちゃっていけないよねえっていう思いと、自分にはもうできないよねって思っているところがたくさんあって、できないと思いながらもこんなこと、メッセージを話すことまで引き受けてしまう頑張りをそのままNABAのメンバーに投影してしまうのがとても怖いです。まあこれも考え過ぎでしょうけど。
まずNABAのメンバーの元気、回復できるんだというイメージをNABAの皆さんが教えてくれたのは、とても大きいと思っています。だからこれは我々相談を受ける者としてだけではなく、これから回復の道を歩む人たちに、とてもとても大きな財産だし、とても嬉しいことだと思います。NABAのスタッフに、もしまだ会っていない人がいたら、ぜひ一度ミーティングで会って欲しいなと思います。そのためにスタッフの方も、いいかげんというよりは一生懸命やっちゃってるところはあるのかなーと思うんですけれども、どこかで会ってみることは、ものすごく大事なことになるのではないかと思います。
今NABAのスタッフがあちこちのミーティングにメッセージを届けに行ったり、フォーラムをやったり、いろいろな活動をしていますけれども、その活動を支える力、エネルギーっていうのは、まだまだ知らないで困っている人たちへ届いて欲しいという思いと、それからその活動自体が自分の回復につながるっていう両方の気持ちがあるんだろうなと思っています。私たちはそれを本当に端から見ているだけかもしれませんが、それでもスタッフやメンバーの人に「来てくれてありがとう」と言ってもらえると、何だかひょっとしたら私でも役に立ったのかしらっていう気がして、ついやり過ぎてしまう。嬉しくなっていろんなところに出かけて行ってしまうっていうのがありますから、多分みんな一緒だと思うんです。「ありがとう」とか「よく来たね」ってほめてもらえたりすると、嬉しくなってまた次も行こうっていうのは、スタッフもメンバーも私たちもみんな一緒なんですね。NABAはその点がとても居心地のよさというのを気をつけてやっているのかなーと思います。
ミーティングに行っても、どんな会に行っても、最後にハグをしてもらったり、握手をしてくれたりっていうのは、何だかとてもほっとすることなんですね。まだ私はハグには慣れてませんから、構えてますけど、構えている、硬直している私でも、とっても優しく抱いてくれます。こういうふうなことがごく普通に、今までできなかった方が変なのかもしれないなと思わせる、とても優しい魅力があると思います。

私たちは応援団とか専門職とか関係者とか、いろんな分かれ方をしてしまうんですけれども、でも気持ちは多分NABAの回復者としてのグループ、もしくはこれから回復しようとしている人たちへのメッセージを運ぶことの楽しさとか、そうですね、回復した人に出会う嬉しさというものに支えられて、続けていくのかなという気がしています。短すぎるかもしれませんけれども、今日はこれで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

(九七年一月収録)
【ニューズレターNo.45:一九九九年 九月】

※1…係者の方が回復が遅い:関係者は自分の問題に気づきにくい、という考えから、「本人、家族、関係者(医療援助職など)の順に回復する」といわれる。
※2…イネイブリンク:アルコール、薬物、ギャンブル、仕事などにのめりとんでいる人々を支えることで、依存症を維持、増悪させてしまうこと。

母と娘の関係から考える―あの時、私の母は死んじゃったんだ

静岡 アケミ

NABAスタッフの皆様へ
日々、寒くなってきましたが、いかがお過ごしですか。
先日は静岡にメソセージを運んでいただいて、本当にありがとうございました。
いち摂食障害者として参加させてもらいました。
「母と娘の関係から考える」というテーマで、私自身そのことを含めて自分のことをすこし書かせて下さい。

私の父は、アルコール依存症です。母は、私が高校三年生の時に家を出ました。私とひとつ遠いの妹を引き取りました。私は家に残されました。一二年たって、私もあの時、連れていってもらいたかったと初めて泣くことができました。
離れることができなかった父と離れて三年以上になりました。父は私の職場の名前と電話番号しか知りません。私は黙って家を出ていきました。
母は、私がどんな仕事をしているのか知りません。母と離れて四年近くになります。
妹も私の職場の名前と、その電話番号しか知りません。連絡を断って二年半になります。
私はアルコール依存症の彼と一緒に生活をしています。彼の住む1DKのアパートに、スーツケースひとつで転がり込みました。
彼はお酒を飲まなくなって八年になります。
生活し始めて最初の頃は、私はミーティングにつながっていなかったので、いろいろありました。
ミーティングにつながって二年近くになります。最近、二人の生活が日々平安の中にあるなと思います。
先月、二人で二DKのアパートを借りました。トイレとお風呂が別にあって、お風呂にお湯を入れて入ることができます。嬉しいです。

私の母は家を出る時、男の人がいました。以前にも……そういえば私が小学生の頃、学校から帰ると、家に知らない男の人がいたことがありました。その時の母親は、とても嬉しそうな顔をしていました。私はとても嫌な気分になり、二階にかけ上がりました。小学生の時は嫌な気分になっただけでしたが、高校生の時は、母は女だったんだ、私にとって母親は母親でしかなかった存在なのに、実際は女だったんだということが分かってパニックでした。ショックでした。
その時の私は、私にとっての母がひとりの女性であるということは理解できませんでした。
私は母親が女になるならば死んで欲しいと思いました。私は母親の着ていたパジャマをはさみで切り刻みました。
母が家を出て行ってすぐに、私は学校の帰り道、偶然出会った伯母から、あんたのお母さんは万引きをしたんだと聞かされました。
家の恥、だから言いたくなかったけど、あんたは長女だから言っておくって。
私の母は万引きをしました。私が小学校四年生の時です。盗んだのは下着だったそうです。当時、社宅に住んでいたのですが、うわさはアパートじゅうに知れわたり、そこにいられなくなり引越ししました。離婚話も出たそうです。でも子どもが小さいからという理由で、離婚はしなかったそうです。
その話を聞かされた時、私は軽べつしました。その話を私にした伯母に対する怒りもあり、その時私は、人を信用しないとかたく心に決めました。
自分ひとりで生きていこうと誓いました。だから私はずっとひとりでした。

今やっと、あの時の母は万引きをすることでしか自分の思いを表現することができなかったんだろうなあと思えるようになりました。
万引きをする前にも、した後にも、母の本当の気持ちを聞いてくれる人は誰もいなかったんだろうなと思うと、つらかったろうなあと思います。

母は女になってしまったので、私は母を失いました。その空虚感、大きく胸にぽっかり空いてしまった穴を-つめるために、私は男性や食べ物に依存してきたんだと思います。
私はやさしくて暖かい、本当のお母さんを探し求めてきたのです。

私は昨日、ミーティングでこの話をしました。夜、仲間から電話があって二人で分かちあいをしました。仲間が気づかせてくれました。あの時、私のお母さん、死んじゃったんだ。私のお母さん、死んじゃったんだって。

そのあと私は、気分が落ち込みました。寝る前に、彼に言いました。

私のお母さん、死んじゃった。
私、本当のお母さんが欲しいって。
彼はお祈りしな、ステップやりなと言いました。
その時、ハイヤーパワーという言葉が出てきました。
彼は寝かしてくれえと言い、私は本当のお母さんてハイヤーパワーなのかなという思いをかかえて、シブシブ寝ました。
今日、朝、彼に「おまえ昨日、寝ながらキャハハハ笑ったぞ」と言われました(想像したらコワイ)。

私はハイヤーパワーという言葉に、男性的なイメージを感じていたので、今はそうなのかなあというところです。
長くなりましたが、これで終わります。たくさんの仲間の力を借りて、これを書くことができました。
ありがとうございました。

たくさんの仲間に感謝をこめて
アケミ
平成一O年 一一月三O日

PS.ニューズ・レターに載せて下さい。お願いします。
最後の一枚、レポート用紙でゴメンナサイ。

【ニューズ・レターNo.38:一九九九年 二月】