アイドルしゅんくん、たっふりかわいがられる

しゅんくん

春光が天地に満ち、菜の花や桜が咲き乱れ、すがすがしい季節になりましたが、みなさんは元気に、ゲロを吐いてますでしょうか。摂食障害のしゅんです(ハイしゅんくん)。
今回報告しようと思ったのは、三田佳子が、息子が薬物をしているのを全く知らなかった、んなあほな、ということでなく、最近急に切れる若者が問題になっている中、僕は症状があって良かった、摂食障害になったことに感謝、感謝ということでもなく、NABAに一週間滞在したことを書きたいと思います。
NABAに行こうと思った目的は、地元では同性の男の仲間にほとんど出会わなく、東京にいる多くの男の仲間と分かち合いたいと思ったからです。だから、多くの女の子と話ができる、年上の女の人にハグしてもらえるかもしれないので、うれしいなぁなんて全然思っていないです。ましてや、彼女ができたらどうしよう、神戸と東京じゃ遠距離恋愛でお金もかかるなあ、でも気分はちょっぴりシンデレラエクスプレスなんて、想像もしていないです。ここで、一週間の出来事をまとめてみました。三月八日の日曜日、仲間の所に泊まり語り合いました。同性の仲間なので、普段できない、女の子の話などできて良かったです。月曜日、NABAに行きました。久しぶりの顔とか見られて、懐かしいなぁと思いました。みんなに「げんきか1」と聞くと、「調子悪い」「うつ」などと返事が返ってきて、仲間に会えたんだなあと実感しました。
火曜日、晴れていたのでNABAの近くの公園で、仲間とキャッチボールや、フリスビーなどをして遊びました。久しぶりに体を動かして、気持ちよかったです。スタッフのやじぶちゃんや、ようこちゃんに頭をなでてもらって、「よし、よし、しゅんくんかわいい」と言ってもらいました。こちらも赤ちゃんになった気分で、気持ちよかったです。終わってから、運営委員会に出席し、NABAの問題点など話し合いました。このことについては、あとで述べます。
水曜日、この日も公園で遊びました。筋肉痛がさらにひどくなりました。
木曜日、向性の仲間とのことでつらくなって一棋を流し、ももえさんに話を聞いてもらいました。夕方から、ワークショップ実行委員会を開いてました。裏方は、大変だなあと思いました。
金曜日、この日もスタッフのゆきみちゃんに会いました。僕がNABAに来ている今週、毎日会っています。ゆきみちゃんが、スタッフの仕事をしに来ているという事実をおいといて、僕に会いたいから毎日来ているんじゃないかと思って、わくわくしていました。この晩、仲間の所に泊まって、また女の子の話をして、翌日他の自助グループに行って神戸に帰りました。
ざっとこんなもんですか。この間、同性の仲間といろいろあり、苦しんだり、ブルーになったりしました。まあ苦しみといっても、成長するための産みの苦しみなので、まあいいかなって思っています。

NABA運営委員会について
NABAの問題点について、話し合いました。僕が思ったところでは、収支が厳しいなあと感じました。会費の収入もさることながら、寄付金や、助成金ゃ、応援する会からの収入などで、なんとか成り立っているという感じです。多くの人に支えられて、NABAが活動できているんだなあと思います。(ここでNABAスタッフから。確かにたくさんの方からお力いただいていると思うけど、「なんとか成り立っている……」と言われるのは……うーん、違う気がするので、NABA会計担当さんから一言。「寄付金、助成金、『応援する会』からは、全収入の三一分の一です。三一分の二は会費や書籍売上などなどです。もっと事業収入を得る方法をみんなで考えてね。本当にお願いね」会計より)僕もできる範囲でささやかながら、月給から一OO万円ずつでも献金していこうと思っています。
会費未払いで来所している人の問題、生活保護を受けている人の会費の分割納入希望に応えるのかなど、未解決の問題も多数あります。みなさんも何か意見がありましたら、NABAの方へ是非お寄せください。みんなでNABAを作っていきましょう。まあそんな感じで、この後に載っている、「ぼくのおかあさん」でも読んでください。ハンカチを準備するのを忘れずに。

最後に一席、

「NABA」とかけて
「温泉旅行」ととく
そのこころは
ゆったりのんびりやっていきましょう
ほんじゃーまたね

しゅんくんより

以上が完成原稿です。つっこみを入れるときは、僕のハイセンスな文章に合うものを入れてください。「ぼくのおかあさん」の原稿は、絵付きでお願いします。あと、句読点を入れた方がいいなと思ったら、入れといてください。

ももえさんへ
ワークショップお疲れさんです。かずおくんに、「怒りの感情を本人(ももえさん)に直接ぶつけろ」と言ったんですけど、どうでしたでしょうか(無責任かな?)。前回のお疲れさんですのFAX、神戸でワークショップを行う件について、ななえさんは是非やってほしいとのことでした。ももえさんがどれだけやる気か知りたいです。もしやる気なら、関西のももえ、めいさんに一言、言っておいて、めいさんがどれだけ前向きに考えてくれるか、聞いておきます。(めいちゃんのごとを関西のももえなんて言ってしまっていいのか?しゅん。めいちゃんはそんなに重症なのか!? by影の声)ももえさん、めいさんがやる気なら、八割方できたも同然です。どっちが仕切るのかや、お金の配分など、重要な問題がありますけど。また電話するので、そのときにでも教えてください。

ようこちゃんへ
電話でタカビーって言って、たきちゃんに怒られた経験から、ようこちゃんから「言ってくれてうれしい」て言われて意外な気持ちです。怒っていたら謝ります。ごめんなさい。そして言い直します。大好きなタカビーょうこちゃんって。あと、電話であまりにも正直に話しすぎたなと思って後悔しています。もちろん誰にも話さないように。東京に行けなくなります。大阪の仲間にも知れ渡ると、すごく会いづらいです。よろしくお願いします。
それではみなさんよろしくお願いします。なお、ニューズ・レターができたら、一O部ほどください。精神保健センターにNABAを紹介するときゃ、仲間などに配りたいと思います。
それじゃーまたね

三月二二日 しゅんくんより

編集者より、しゅんくんへ

しゅんくん原稿ありがとう。それと月給から一OO万円ずつのご献金を下さるとのことにも、心から感謝申し上げます。早速、来月からのご送金、心よりお待ちしております。なお、あなたのハイセンスな文章へのつっとみをとのことですが、つっこみの文章の方がしゅんくんの原稿より多くなりそうなので、今回はご遠慮させていただきます。ご希望にそえなくてごめんなさいね。また、次回お会いする時には、今度は私も、「よし、よし、しゅんくん」とたーっぷりかわいがってあげましょう。腕をならして待ってます。楽しみにしてて下さい。(by ももえ)

男の子の頭を初めて「なでた」やじぶです。しゅんくん、原稿書いてくれて助かりました。
さて、私は「かわいい」ではなく「どう頭をなでたらいいか、わからないよー」と言いながらなでました。読む人がどう思うのか、恐れて言い訳してみました。また、こういうことを書くのも、しゅんくんを傷つけるのではないかと心配にもなっています。「ノーコメント」にしようと思ったけど、仲間に励まされて自分の気持ちを書いてみました。(by やじぶ)

しゅんくんが来た週に、不覚にも(笑)毎日来てしまった、ゆきみです。周知のとおり、私は自分の具合の悪さと、スタッフで毎日NABAに通ってしまいました。ヴーン……三%くらいかな、しゅんくんに会いに来てたのは。いまや消費税よりも少ない確率よ(笑)。
神戸でのワークショップ、ぜひぜひ成功させて下さい。ただし、交通費はしゅんくんもちで。σ(可ゆきみ)しゅんくんが東京に居た週、やたらと男性メンバーの存在を多く感じました。運営委員会の司会もお疲れさんでした。そしてしゅんくんを見習って、私も図太く生きていきたいわ。そして本物の「タカビー」を目指すわね、おほほ。(by ようこ)

【ニューズ・レターNo.27:一九九八年 四月】

ファイヤー!――ワークショップを終えて

伊藤ななえ

ワークショップが終わった。今年三回目のワークショップだ。第一部、第二部と分けた参加方式にして二度目。いきなり二泊するのは……という人、仕事が忙しい家族、興味はあっても「やっぱり土日でないと」という医療・福祉の関係機関にいる人。いろいろな人に参加してもらいやすいようにと考えた方式だ。開催するほうとしては、正直言って名簿作りや部屋の申し込みなどがかなり面倒だ。今回はじめてスタッフとして参加した仲間と、私も一緒に混乱した(ワークショップ委員のみんな、お疲れさま!)
思い起こすと、今回は準備段階から「みんなでやった」という実感が強い。それは私自身がワークショップに少し慣れてきたということもあるのだろうが、それにしても今回は、みんなで時聞をかけて少しずつやっていった感じがする。はじめて試みたミーティングがあったし、スタyフ参加とそうでない仲間の参加の区別などの問題もあって、私などは見ていて少しじれったくなってしまうこともあったけれど、ていねいに確認しあいながら話し合った。前日に荷物を運ぶのにいつもお世話になっていたやどかりのお母さんの車も、今回はお願いしなかった。スタッフの一人が買って出てくれたからだ。
今回はいつもの招待参加の枠を思いきって広げて、できたてのグループや家族のグループにも招待の葉書を出した。合計で二二グループになった。会報やニューズ・レターで紹介したグループも、こんなにいろいろあったのかと驚いた。
当日は台風が関東地方を通過する、という荒れ模様。地方から来るみんなの交通機関は大丈夫かしら、キャンセルがたくさん出たらどうしよう、などと少し心配だった。初日の午後にはめでたく台風は去って、カッと暑い日差しにびっくり。通常では止めてしまっている冷房を急きょいれてもらってほっとしたのも束の間、二日目はもっと暑い熱風が吹き荒れる「おお!嵐」となった。今回はじめて来ていただいたアサーティブ・トレーニングの松田先生いわく「フアイヤ!状態」となった二日目のシンポジウムは、武田さんが地雷を踏んでくれたおかげで(!?)、みんなの言葉が色とりどりの花火となって作裂したようだつた。私はそれをただ呆気にとられて見ていたような気がする。
武田さんの言った「覚悟する」とか「諦める」とか「普通」という言葉が起点となって、みんながこの言葉に対する自分なりの体験を話した。それはまさに「体験談」だった。自分のかけがえのない体験から話されることだったから、誰もそれに対して意見なんかできない。この説得力の鮮やかさといったら!
私が知っているいわゆるシンポジウムや学術的な議論の場だったら、誰かが言ったことに対する反応があり、それが新たな議論となって次第にある事柄が一つにまとまって結論めいたものとして提出されてその場が終了する。ミーティング形式や体験談だと、その場のまとまりや結論が出されないことの不全感をいつも感じてしまう私なのだが(そもそも個々に違っているからこそ意味のある体験談に、一般化や抽象化が不向きであることは承知していても)、今回は違っていた。はじめは武田さんに対する反論という雰囲気であったが、みんながそれぞれの体験談のなかから「諦める」ことや「覚悟」ということを話していくうちに、次第に武田さんとみんなの体験談の共通点が見えてきたよう、だった。私は武田さんの言ったそれらの言葉の向こうに、語られなかった武田さんの体験談を勝手に想像していた。みんなの語りを聞いているうちに、みんなが独りで「覚悟」し、独りで「諦め」ょうとしてきたその悲しさと冷たさが私には伝わってきた。「覚悟する」こと、「諦める」ことは一人ですること。その一人の作業をNABAに集まっている人たちはすでにやってきていたのだ。たった「独り」で。だからこそ仲間の存在がうれしかった、仲間に会つであったかいと感じられた。独りの寂しさをイヤッてほど知っていたから。「ああ、そんな思いがあったから、だからみんなはNABAにいるんだ」と思った。そしてその「みんな」のなかには、確実に武田さんも含まれていると、そう思った。武田さんは仲間に会いたくて、専門家になったのではないですか?
専門家ということで思い出すのは、「医者は靴です。はいてみて痛かったら遣うのにはきかえていいのよ」という後藤先生の言葉だ。後藤先生の静かではあるがきっぱりとした物言いには、今回も胸のすく思いがあった。私はこの問題に関心をもちはじめた時から、専門家、特に精神科医などの医者の摂食障害者に対する明らかな偏見や固定化した見方を感じていた。それはなにも摂食障害者に対する精神科医に限ったことではなく、精神医学自体がもっている、いや医学全体がもっている治療の対象としてしか扱わない倣慢さからきている問題であるのだが。とにかく摂食障害に関してはいろいろなことが専門家によって言われているので、医者の治療方針に合わないと感じても不思議ではない。でもとかく人は「高名な」先生にかかりたがるし、特に摂食障害の場合は先生に見放されたくなくて「いい患者」をやってしまいがちだ。ひどいことを言われでも、不快だと感じても先生から離れることができないとか、途中で行かなくなったことに罪悪感を感じていたりする人の話をよく聞くので、私は「医者は選んでいいのよ」というこの一言を日頃から後藤先生に言ってもらいたくて仕方なかった。後藤先生、ありがとうございました。そしてこれからもみんなの昧方として、私たちが感じる疑問や質問にやさしく、きっぱりと答えてください。
私たちがじっくり話し合って準備したと同時に、たくさんの人たちの参加に支えられて終わったワークショップだった。みのりの秋、収穫の多いワークショップが無事終わったこと、思い出がまた一つ増えたことに感謝いたします。みなさん、また会いたいです。

【ニューズ・レターNo.22:一九九七年 一O月】

症状が消えても・・・ 親にもらい損ねた大切なこと

Ryoko

つい先月まではいろんなことに対してむかついて腹が立っていた。父親のこととか。今はいろんなことについてうんざりしていて、何をするにも億劫だ。
症状が消えてから二年ほどだろうか。症状が消えた分、生きててうんざりすることが増えた。父親にも母親にもうんざりするし。なぜ症状が消えたのかは、はっきりいってよくわからない。何となく、自分で働いて、親から仕送りを貰わなくなってからのような気もする。
それでもこだわりがとれないのは、パワーゲーム、それもお金のパワーゲームだ。いまだに私の中では、お金を稼がない奴はごくつぶしである。故にもちろん私もごくつぶしである。
そんなことはない」。そう、そんなことはないかもしれない。しかし私には信じられない、「ただ生きているだけでも価値がある」なんてことは。正直言って、誰かに信じさせて欲しい位なのだ。

私が親にもらい損ねたものは沢山あるが、まずは、失敗しても立ち直る強さである。よく、「挫折知らず」とかなんとか言われるが、とんでもない。失敗しても自分には立ち直るすべがないからがんばっただけだ。それもすげ1がんばらないといけないんだから。失敗の先には親の叱責(無一言の圧迫も含む)とその恐怖しかないとしたら、誰が失敗なんかできるかよ?今の私なんか、挫折続きで、もうボロボロだ。半分おこもり状態である。
次に、もっと大事なものだ。それは、「私の弁護士」である。「私の弁護士」とは、私自身のこと。つまり、「自分の感情・経験・希望」を自分で全力で守って弁護する権利が私にはあるということを、私の両親はすっかり忘れていたらしい(今は忘れていたことさえ忘れているが)。
お母さん、私が小学校三年の時、算数の塾に行くのをやめたいと言ったとき、どうしてやめさせてくれなかったんですか?あなたが代わりに行けば良かったんです。
いやなものはやめるんだ!他に何の理由があるというのだろうか?

今不自由しているのは、「喧嘩の仕方を知らない」ということだ。言いたいことを相手に伝えるのにはどうしたらいいか?感情を飲み込んでうわべは平穏な生活を送るのは簡単だ(お母さん、あなたはいつもそうしてきました。お父さん、あなたはそして楽をしてきましたね)。でも私はそういう風にうわべを取り繕わなくていい人間と結婚したんです。でも適当な喧嘩の仕方を知らないために、相手を意味もなく傷つけてしまう。なぜ私に喧嘩の仕方・仲直りの仕方を見せてくれなかったのですか?大学の卒業証書よりも人生では大切なことなのに。

症状を手放してからもいろんなことに目をつぶってきた。昨今で一番ショックで、認めたくなかったのは、父は自分以外のことにはあんまり興味がもてない人間らしいということだ。私は人間関係の中で温もって幸せを感じる人間だが、彼はそうではないらしい。父は自分と同じ興味を持っている人と、その興味を通じて関わるのが好きだが、それ以上その人自身と深く関わることはない。私や母や兄に対してもそうだつたと思う。父は本当はどうしたいのか、私にはわからないし、もう関係ない。
私はこれからは、自分と同じように、人の聞で温もるのが好きな人と関わって行こうと思う。それがこのうんざりする人生の中での唯一の慰めである。

【ニューズ・レターNo.15:一九九七年 三月】

自分に今日も、「まる」

相のタカボ

今回ニューズ・レターに、親の立場から書いて……と言われて、非常に困ってしまいました。どうせ書いても、うまくは書けないとわかっているのだから、期限日までの一ヶ月の聞に早く書いてしまえばいいのに、私のくせで期限ぎりぎりにしか書かない。思えば書く物だけではなく、日常たのまれたことでも、そうなのです。すぐにやりたくないのか、やらないのか、大変気むきな私です。今、兄弟のことを思い出したので、それについて書いてみます。

私の兄弟は、三男四女です。私は、そのちょうど真ん中で三女です。何の問題もない裕福な家族と思って、私は育ってきました。それは物質的な裕福であって、父の職業は軍需工場に品物を、特にその中でも食料を納める大きな工場を持っていました。家の中には常に食べ物が、散乱していた様に思います。
私の母は、使用人がたくさんいるというのに、いつも忙しくしている人でした。それが関係しているのか、私の小さい時の母の思い出はあまりありません。でも、ずーっと心に残っていることがあります。母は無神経にも口癖の様に、自分の子供たちに言ってきたことがありました。それは妹をとても可愛がり、常に「頭のいい子だ」と世間にも自慢をしていたことです。私はとても悔しく思っていたし、妹に対して葛藤があったり、コンプレックスを感じてきました。だけど表面的には、とても仲のいい姉妹であったので、他人にも羨ましがられていました。母は着るものにしても、私まではお下がり、妹には新しい洋服を買ってあげていました。このことも、つい最近までは、自分のひがみだと思っていたのですが、理由はあったのです。私は、よく兄と遊ぶことが多く、木登りをしたり、棒切りを持って「戦いごっこ」をしていた記憶があります。洋服は、いつもボロボロにきらしてくる。この様な遊びをしている私に、母は「お前は男の子であればよかったのに」「おもちゃ屋に行って、おちんちん買ってきてくっつけてしまうぞ」といったことを幾度となく言い、幼い私は、本当に売っているものだと思い込んでいました。そして私は、小さい時から家族、親戚、近所の人たちに「タカボ」と呼ばれていました。今でも兄弟姉妹はこう呼んでいます。私の田舎である秋田では、私より年の老いた人たちは「タカボさん」と言って「さん」をつけて呼んでくれています。何十年も、この呼び方を不思議に思ったことはありませんでした。兄は「ヒロボ(弘ごと呼ばれていましたが、変ではない。というのも、私の故郷では、
男の子を可愛がって呼ぶ時に、名前の後に「ボ」をつけて呼ぶのです。だから、かえって兄は長男だから、可愛がられたのか、と思ってしまう……。
今、自分のことをいろいろな角度から点検しているところなのです。

私は、鹿児島出身の跡継ぎの長男と結婚しました。
夫は先祖代々を守らなければと思っている緊張感のある人でした。私は女の子を三人生みましたが、最初から男の子を期待されていました。長女、次女、三女。期待はずれの子供。私は夫に対して、すごく罪悪感を感じ、男の子を生めない女は女でないような、乱暴なあっかいを受けました。今、振り返ってみると、私は夫からだけではなく、もともと母からも女性として認められていなかったと思います。
最近は、夫とのやり取りで、嫌なことがたくさん出て来ています。今、それに直面しているところです。世間には、良い夫婦の仮面をかぶっているので、仮面をはずすのには、まだ時間がかかると思います。今は自己認識をして、これまで自分に対する評価が低かったのですが、少し見直しする中、変化が出来てきています。長い問、摂食障害者の母親としてしか語れなかった自分でしたが、娘がたくさんの症状を通して、家族にも、そして私自身の生き方にも、体を張ってメッセージを送ってくれたことに、またこれまで出会ってきたたくさんの仲間の方々にも、感謝と喜びを送り続け、誇りを持って歩み続けたいと思います。自分に今日も、「まる」をつけて、これからも生きていきます。

【ニューズレターNo.11:一九九六年 一一月}