勝手に言いたい放題

ももえ

前号の文章から、私が感じたこと。「弱いものは守られるべき」の「弱い」って何だろう?もちろん弱い立場、例えば子供や病人に優しいまなざしは必要だと思う。しかし女性や摂食障害者は本当に弱いんだろうか?男性に一方的に守られるべき存在なんだろうか…こんなことをふと考えさせられた…られる。
少なくとも今の私は、自分のことを、「弱い」から摂食障害になったとは思っていない。むしろ弱々しさを子に入れるための手段として、摂食障害があったとは思う。それは、無意識にもしかしたら自分はいわゆる世間一般でいう「強い女」「力を持つ女」の一人かもしれないという恐怖、理不尽さを感じとっていたから。……だって、どう考えたって「か弱い方が絶対的に得してる!」と思ったもん……。
でかい体、できる力、その結果「ももえは大丈夫」と言われること……「ぜんぜん大丈夫じゃないよ」
「私だって可愛がられたいよ」そんな怒りややるせなさでいっぱいだったあの頃。今だって大声で泣きたくなるごとがある。そんなことは私には似合わない…と、つい突っ張ってしまう私。誰か甘えさせて、可愛がって、と思いつつ。
だけど私、そんなに男の人に一方的に守ってもらいたいって思ってきたかっていうと、そんなことないね。むしろそこら辺の男を頼るぐらいだったら、
「自分の中の男」の方がよっぽど?ううん、一番、確実に頼りになるよ。ましてやはっきり言って摂食障害の男なんて!頼られることがあっても、頼ることなんて全くないね。まあ、この私に対して「頼れ」なんて言う男はそれこそ皆無。万が一そんなこと言ってくれたとしても「勘違いしてんじゃない?まずは自分の面倒見ろょっ」ていう感じかな。これが偏見と差別っていうことだったら、私自身認めます。

しかしどうして、時々こんなにも摂食の男らにイライラするのか?多分、私の中のメメしい部分を見せつけられるようなところにあるのかな?
ところで男性が強いって、確かに生物学的には体力とか、事実そう言える?
だけど何をもって強いっていうんだろう?むしろ弱いからこそ強さを誇示する…そのカの確認のために弱い女の子が必要になるって考えられない?
そんなんだから女側が自己表現・実現しようとすると、理論・筋肉・経済力等でねじふせようとしたり、また可愛い女を求める一方で、母親をも求めてくるんでは?もちろんね、ほんとにほんとに女性特有の傷つきつであって、男性側の配慮や理解、学習を求めている私がいるのも事実だけど。でもそれは一方的に弱い女を守る、保護してあげるっていうのとは遣うよ。私たち女性は女性で力を持つことを恐れず、自分たちのことを自分たちのために考え、声を出していくことが必要で、男も男たちで、女に「~してあげる」っていうんじゃなくて、自分たちの生や性について深いところで本気で見つめ、本音で語ってほしいと望む私がいる。
せっかく摂食障害になって、そこで出会った女と男だもん。私たち仲間に限らず、対立でも、変に仲良しこよしするんでもなく、対等な位置で、対等な関係を考え直してみたいな。その上で私も「甘え上手」になりたいわなあ。

【ニューズ・レターNo.30:一九九八年 六月】

男性は分けて!

匿名希望さん

一通めの手紙

基本的に男性といっしょのミーティングは、男の人には知られたくない部分を言い表すことができないので、原則的に分けて欲しいと切に望みます。また、性も心身も遣いがあるので、お互いの回復へのステップの大きな妨げになっている現実を、よく考慮してほしいと思います。

回復を目指して来ているのに、そのことで、ミーティングに行けなくなって、信頼が芽生え始めていた女性どうしの信頼と励ましの紳が、そこへ男性が入ってくることによって、信頼と励ましの土台の上に成り立ちつつある回復が、最初の状態よりひどい状態になってしまうことです。
こういうことは、男性の側からは理解できない現実であり事実です。

男性は男性だけのミーティングに分けて、これからのことを考えていただけないでしょうか。

 

ニ通めの手紙

私はNABAメンバーです。今、大変困っています。とても苦しんでいます。ある問題で。そこで質問なのですが、NABAでは、ミーティングに男性が参加することを推奨しているのですか?最近、ある男性が私たちのミーティングに突然、姿を見せてかなり混乱を起こしています。彼の存在は、私の他にもメンバーに少なからぬ不安を生じさせました。男性のみのミーティングがきちんと聞かれているのに普段のミーティングに来られては、私たちの回復の妨げになります。非常に困っています。
これでは、何のためにNABAに来ているのかわからなくなります。男性が出席した日のミーティングの後で、私の他に男性依存の問題をかかえているメンバーに電話をして、その日のミーティングをどんなふうに感じたか、意見を聞いてみました。
私自身は、その日男性が出席していたことに当惑を強く感じ取っていたのに、そうではない意見もありましたが、その時ふと、私は、彼女たちはもともと男性の世話、ばかりやいてきた女性なのだと気づいたのです。「彼が他に助けを得られる場所がないなら、入れてあげましょう」初め幾人かの彼女たちはそう言いました。そこで私は質問を変えてもみました。
「グループに男性がいても、いつもと同じように素直になることができ、快適に感じることができますか?」
ほとんどの答えが「ノー」でした。この事実が、私たちがいかに自分の要求よりも他人の(とくに男性の)要求を優先させているか、NABAのスタッフの皆様もおわかりでしょう。はっきり言います。女性のミーティングに男性のメンバーは入れないで下さい。
今回は、NABAのスタッフの皆様に、「男性が会合に参加する」という問題について、理解し、考えなおしていただきたく、手紙を書きました。
どうか、私たちは苦しんでいます。苦しんでいます。
スタッフの話し合いの場所で、この問題を取りあげて、前向きに検討して下さい。
この手紙を単なる一通の手紙として処理しないで、真剣に受けとめて下さることを願いつつ、ぺンを置きます。どうぞよろしくお願いいたします。匿名希望より。

(文中傍点も、本人のまま)
【ニューズ・レターNo.30:一九九八年 五月]

あとがき

NABAの紙上オープン・ミーティングに参加してくれてどうもありがとう。いかがでしたか?
私はミーティングで初めて、それまで深い井戸に閉じ込めてブタをしていた、生きることの虚しさや親への怒り(今は感謝しています)、劣等感と向き合うことができた。話しているあいだ、自分がバラバラになってしまうような、世界がどうにかなってしまうような恐怖や、「こんなの迷惑だ」という自己批判がいつも「やめろ」って体を引っ張る。でも、井戸に降りていき、足を踏ん張った。話し終わると、嘘の自分じゃなく本当の自分でいられたことの確かさに満たされ、生きてるって実感した。そういう場があることは文字どおり「有り難い」ことだと、会社と家の往復の今つくづく思う。
本書はミーティングの「有り難さ」を再現するために、文字をそろえてとか、著者順を並べ替えて整理してといった通常作業をあまりしてないので、少しわかりにくいかもしれない。「いいかげん」「ありのまま」ってことですね。それでも単語を直したり、テレフォン・メッセージに多い「っていうか」や重複部分などを削除したところ、仲間から校閲しすぎと抗議があった。確かにミーティングの語りは丸ごとその人だから、直すことは冒涜と言えるかもしれない。でも、この本は一般書なので失われるものがあるのは仕方ないと思う。少なくとも「最低限の直しのみ」という筆者との約束違反なのは事実です。筆者の皆さまごめんなさい。
それではこれからも、ボチボチといいかげんを目指して……。

編集委員第一号

編集委員二号のあきこです。「溺れる者はNABAをもつかめ!」と、ワラならぬNABAをつかんではや一O年。たっぷり水も飲んだものの、ただの「陸地」にどうやらたどりついた。そこはパラダイスでも天国でもないが、「この本の編集のお手伝いをする」というような思いがけないイベント(?)はごろごろ転がっていそうだ。
難産ではあったが、たくさんの人の力を借りてこの本はようやくかたちになった。NABAの内外で摂食障害と生きる方々、そして今まで摂食障害とまったく縁のなかった方々、ひとりでも多くのもとに届きますように。「分析おことわり!」というタイトルは専門家の方々を排除しようとするものでは決してない。この本を「地球によく似た星」(表紙の絵をごらんください)にたとえれば、ここで「専門家」「治療者」「援助職」たちと摂食障害者本人・家族とが、「患者」「症例」「ケース」という名前以外で出会って「治す治してもらう」以外の関わりをもったり、またそうした出会いがこの星から外へ外ヘ広がったりすればいいなあ、と思う。
私がかつて一冊の本に背中を押されてNABAにつながったように、この本によってNABAを知った、あるいは前から知っていながら参加するのをためらっていた方々がこの本と出会い、NABAにつながるきっかけとしてもらえたら、とても嬉しい。今すぐでなくてもいいから、「気の向くまま足の向くまま」でいいから、「NABAってどんなところ?」って確かめにきてみませんか。なんて書いてから、それは自分の勝手な願望、おせっかいかしら?という気もしてきた。うーん、まあ好きにしてください。ともかくNABAにはいつでも仲間、いますからね。(あ)

編集委員一号圭子さん、二号あきこさんはじめ、皆に助けられてばかりだった桃江です。
『ニューズ・レター』を一冊の本にまとめたいという念願がかなって、何よりも嬉しい。それにしても、やる気になったらいつでも作れると安易に考えていた作業もいざ取りかかってみると、私にはとの本作りは無理だということが早々にわかつて、自分でも驚いた。
私はやはり、「ニューズ・レター』六O号分からの原稿選定ができなかった。一つ一つの原稿に
その顔その時の情景がうかび、どれもこれも愛しい物語である。とうとう原稿選定委員にお任せすることで本当に救われた。選んでもらった結果、圧倒的に群を抜いて支持された原稿は極めて稀で、ほとんどが誰彼かによって推薦を受けていた。それぞれ千差万別の好みが表われているかのようで、NABAらしいなと今さらながら新鮮だった。次は推薦順から淡々と並べていくはずの私が、今度は今度で選ばれた原稿を無視してでも、自分のものも含めこっちよりあっちの方を載せたいとか、ずるい考えが出てきてスタートからもうめげていた。
編集作業にも困った。毎月の『ニューズ・レター』発行程度に考えていたが、そんなわけないだろってことで、前段階も併せて、先の二人に泣きついた。日曜日ごとに集まっての作業は二人に会えることこそ楽しみだったが、時々とんちんかんなことを言っては失笑をかい、途中からはせめてじやましないようおとなしく列していた。こんな立場なのに、圭子さんに抗議したのは私。
彼女たちの能力に嫉妬したのか、ここらで自分の存在を、と巻き返そうとしたのかも。ただ、とかく調査研究者やマスコミ取材関係者の方々などが、NABAや摂食障害(者)を一般にもよりわかりやすく伝えるためにという名目で、その人の思惑や思い込みが先に立つ十把一絡げの表現をしがちなことと、重なって見えた私には残念だったのだ。また、自分で手直しをしたがっていた筆者たちに期限をたてに情け容赦なく校正ゲラを取り立てたからには、皆との約束は守りたかった。結果的には読みやすくなったことは確かで、私もいいかげんじゃないのねと自分のことは笑えるが、筆者の方々には、現場監督pの私からも不行き届きを謝ります。
そして、私の出番がやっときた、「まえがき」なんて簡単にやってしまえると甘くみていたが、ここ数週間はマジにノイローゼになりそうだつた。「私」が思うことを「NABA」や「私たち」で括ってしまっていいのか?このまえがきのせいで本を買う気にならなかったら?誰かから恨まれたら怖い!私こそNABAの究極のよい子Pいやいや極めつけのたち悪い危険人物か円……などなど。目も頭もグルグル回りで書き綴るうちにどんどん大河ドラマになるは、自分の表現力の未熟さや限界を突きつけられ、やさぐれるはで大変だった。皆に苦笑されつつもなだめられ、とにかく書き上げた。最終的には一般図書のいわゆる「まえがき」には相当しないという判断で、「はじめに」という名前に変えやっと勘弁してもらった。だけどこんな状況に、ひと昔前の私だったらとっくに過食幅吐にはまるか、ひきこもるか、NABAから失綜でもしていただろう。今回の件で一人の力では限界があって無理なことでも、皆に助けられ一緒になら実現できることがあり、またその喜びも改めて知ることができた。私もやれるだけのことはやった。あとは多くの人々・時・神様の力にゆだねたい。
症状がなくなり、いわゆる社会復帰を「治ること」として、何かその方法や答えが見つかるのではと読まれた方には、乙の本は期待はずれかも。ただ、治す場ではないNABAに救われた私(たち)がお伝えしたいメッセージは「摂食障害になってはいけない」ではなくて、「摂食障害になっていいんだよ」ということだと思う。症状を頑張ってなくそうとしてクタクタになり死にたくなるぐらいなら、症状をもちながらでも生きていてほしい、共に生きていきたいと切に願う。

最後になりましたが、この出版事業は「トヨタ財団」のご助成によりかなったことを心より感謝いたします。デザイン担当だけのはずが、編集委員三号と錯覚するほどにお力をくださった逸見涼子さん、期限ぎりぎりのお願いにも関わらず快く素敵な表紙絵を描いてくださった門脇大作さん、財団への助成申請から進行まで助言、時には奔走してくださったNABA応援団のじろうさん、こちらのわがまま勝手な言動にも最後まで辛抱強くお付き合いく、ださいました東峰書房の高橋衛さん、厚くお礼申し上げます。筆者の方々、編集委員の圭子さん、あきこさん、原稿選定委員の中川ょう子さん、矢崎あかねさん、大塚経くん、川口綾子さん、近藤衿子さん、ゆうこさ
ん、智子さん、きょうこさん、レイコさん、なおこさん、たか子さん、Kさん、Moさん、Haく
ん、-くん、煩雑な作業を引き受けてくれた三浦恵子さん、大和田尚子さん、川島真紀さん、赤木佳子さん、私のまえがきにフィードパyクしてくれた山口真理子さん、NABAの友人の浅野千恵さん、皆の協力があったから、この本が生まれ、広い世界へ送り出すことができそうです。
もちろんこの本作りに限らず、NABAややどかりーず(家族の会)のたくさんの仲間たち、ここや摂食障害者に日頃から関わって下さっている皆様へも、思い浮かぶそれぞれのお名前を書き連ねられないのがとても心残りです。多くの本の「あとがき」にある謝辞を単なる建て前と見ていたけど、今回、私自身、が本音として体験することができました。本当に本当にありがとうございました。摂食障害のあなたとも、摂食障害をもっていないあなたとも、分析好きのあなたとも、この場以外でもまたお会いできることを楽しみに!では。

二OO二年二月二八日

テレフォン・メッセージ-夫婦(めおと)メッセージ

大阪 めい&かず

私の宝物 夫と仲間、そして私自身

こんにちは。大阪NABAのめいです。今日は「私の宝物」っていうテーマで話したいと思います。今私が大事にしたいなと思っているのは、夫と仲間、それと自分自身です。まず夫とは一O年以上前からのつき合いなんだけど、いい関係になってきたなーって感じ始めたのは二年ぐらい前からかな。昔は、彼との距離のとり方とかわかんなかったし、自分の気持ちの伝え方が下手だから、言葉を使つてのコミュニケーションってすごく難しかったんですよ。NOがはっきり一言えないしね。しかも「こうして」とも言えない。でもNOが一言えないからってそこであきらめてるわけじゃなくて、私の心にはいつも漠然とした欲求不満みたいなものがあって、それを感じた時に拒食や過食っていう形を借りて出してたなあって思うんです。自尊心なんて全くなくて、いつもビクビクしてました。彼といても安心感なんてなかったし、一緒に何かを楽しむっていうこともできなかった。笑ってる時間っていったら、今の一O分の一以下だなって思います。いつも不機嫌な顔をしてたなーっていう感じです。
彼はとても健康的な人で、機能している家族で育ってるから、他人との関わり方や自分との関係が私とは全く遠》つんですね。何でもそこそこ楽しめて、人ともうまくつき合う、自己肯定のできる人なんですよ。そんな彼がうらやましくて、うらめしくて、もしかしたら恨んでいたのかもしれないです。でもね、私には彼しかいなかったんですよ。だからすがっていたんだと思うんです。両親には絶望していたし、本音で話せる友達もいなかったし。だけどダイエットは彼には内緒でごっそりゃっていたし、過食も、しばらくは黙ってたんですよね。彼にばれないうちに治そうなんて、過食のことを甘く見くびってたんですよ。でも症状はどんどんひどくなるし、仕事も、就職してもすぐにやめて、転々としたりして、そのうちこもりだしたら抑うつもひどくなっちゃって、「何とかしてよ」って感じで彼に告白したんですよね。
彼はびっくりしたとは思うんだけど、最初あまり深刻には考えてなかったと思うんです。「そのうち治る」なんて舌口ってたような気がするんですよね。私はもう必死で、彼に何とかしてもらいたくて、斎藤(学)先生の本とか送りつけて「読めー!」とかやってたんですよ。彼は彼なりに私のこと心配してくれてたんですけど、私はいつもなーんか淋しくて、「ムチャ孤独ー!」なんてやってました。二人でいても、いつも淋しいって思ってました。何が淋しいのかわかんなかったけど、すぐイライラして、イライラしては彼にあたったり、わけもなく泣いてみたり。そんなこんなで何年かたって、症状の方も結構きついところまで来てて、こもりも底っきてしまったんです。それでやっとNABAのミーティングにたどり着けました。
彼自身の話は、乙のテレフォン・メッセージの他のメニューで聞けるから、聞いてみて下さい。彼も私に振り目されて、すごく変わったと思うんですよね。でも基本的に愛されて育ってる人なんですよね。そんな彼を見て、私は他人との関わり方とか、健康的なものごとの考え方とかを学ばせてもらってます。私はどうしても彼に親を求めてしまうんだけど、彼は「親にはなれないよ、俺はパートナーなんだよ」って言ってね、私を大人扱いするんですよ。冷たいなーって思いながらも、そうやって関わってくれたことを今では感謝しています。対等な関係っていうのってすごく難しいと思うんだけど、もしかしたら彼とは、そういう対等な関係作れるかもしれないなって感じです。何ていうか、親密さ、彼とは本当の意味で親密になれたらなって思います。
もうひとつの宝物は、仲間です。NABAにつながった四年前には、仲間って何?って感じでピンとこなかったんですけど、今ではもう仲間なしではやっていけないんです。もちろんミーティングも大事ですけど、仲間との関係の中で私は成長してきた感じがするんですよ。人間関係がすごく下手だから、どう関わっていいかわからなかったり、距離のとり方も変で、巻き込んだり巻き込まれたりしてきたけど、そのつど頭打ちながら、関係を作ってきました。
「ああ、あの人怖いなー」とか、「あんな奴キライだー」とかね、それとか「話聞いて!なんて言ってもいいのかな」なんて悩みながらやってきました。でもとにかく淋しかったから、人と関わっていたかったんだと思うんですよ。「私はここにいてもいいの」っていつもビクビクしてたけど、最近やっとここは私の居場所なんだって感覚が持てるようになりました。
この頃は仲間の笑顔や泣いている姿を見ていると、何かいとおしくなってしまう自分がいます。一緒に笑ったり、一緒に泣く。もちろん嫌なこととか、傷つくこともあるんだけど、いいとこばっかりの人間関係なんて少ないんですよね。それに傷ついた時はミーティングで「私は傷ついたんだ」って一言えますしね。対人関係っていうのが変わってきたら、自分と症状との関わり方も変わっていくつていうのが実感です。もう何年も食べ物に泣かされてきた私が、今は何か食べ物で救われてるから、何かすごいよねーっていう感じです。今は仲間と食べる食事がすごくおいしくって、ありがたいなって思ってます。仲間には親やってもらったり、兄弟になってもらったりしてます。そこでは摂食障害者であり、ACだっていうことが大事で、年齢とか社会的立場、環境なんて全く問題じゃないですよね。これからも仲間には助けてもらいたいし、一緒に成長していけたらって思います。
最後の宝物はね、っていうか、宝物になったらいいなっていう願望なんだけど、自分自身を好きになれたらいいなって思います。条件っきというか、ルールが好きだから、どうしても「こうでなきゃ」とか「こうしなきゃ」って自分を縛つてないと安心できないとこあるんですけど、それも今は仕方ないかなーって。ありのままって難しいですよね。でもいつか、いつか好きになれるかなっていう感じで、「今のところはこれでいつか」って思っています。
ということで、今日はこんなところで終わらせてもらいます。最後まで聞いてくれてありがとうございました。

摂食障害の妻と出会ってわかったとと――受け入れることの難しさ――

私(かず)がNABAを知ったのは、私の妻が摂食障害者であったことがきっかけです。そして本人たちの回復の手助けとして、周りの人間の理解が必要不可欠であることを知って、NABA応援団の一員になりました。はっきり言って以前の私は、人間はどんな親に育てられでも、ある程度大人になれば、勝手にいろいろなものごとを判断し、努力次第でいくらでも立派な、そして強い人間になることができて、そうならないのは単なる甘えであると考えていました。しかし彼女の症状や生育歴を聞いているうちに、自分とは全く違う環境で育った彼女の考え方ゃ、価値観、そして摂食障害という症状などに興味が高まっていき、そのうちその根底にある家族関係というものが、その人のその後の精神活動とか、あるいは行動に大きな影響を及ぼしていることに気づ
きました。
そうした視点で世の中を見てみますと、確かに家族というのはある意味では野放し状態で、この世の中で唯一安全な集合体であると、もうそれが前提になってしまっていること、そこに問題、があるように考えるようになりました。もちろん全ての家族が危険であるという意味ではなくて、危険な家族が存在するということにもっと注意を払うべきであると感じたのです。乙う言ってしまいますと、ずいぶん簡単にこのような考え方をするようになったと思われるかもしれませんが、実は彼女から症状の話を聞いてから、五、六年たつんじゃないかと思います。その聞には、まだ結婚する前ですが、いろいろと衝突もありました。今にして思えば、彼女の症状なんかに対して、ずいぶん無理な提案というかアドバイスをしていたんじゃないかと思います。ただ結婚してからは、今二年たつんですけど、この問題というかこういった話題について、彼女とはとことん話し合いをしてきました。現在、彼女は症状がなくて、もっと楽に生きるということを目指しているところなんですが、彼女が変わってきた背景というのには、やはり彼女にとって安全な場所というものが少しずつ広がってきたというか、彼女自身広げていったように思えることです。結婚当初は、結婚までに八年もつき合ったんですけど、それでもやっぱり私との関係に安全であるという感覚が持てなかったと言います。その時には、彼女の原家族、つまり実家ですね、これは今もそうなんですが、彼女にとって安全な場所ではなくて、その頃唯一、自助グループのミーティングだけが安全な場所であったと言います。それから私との問で、安全な場所の感覚が少しずつできてきて、いつの間にか昔と比べるとだいぶ生きやすくなったとき口います。
私が思いますに、安全な場所というのは、そのままの自分がそのままで受け入れてもらえる場所というとわかりやすいと思います。結局周りの人間は本人に対して何もできなくて、全くの無力であって、ただ自分が相手、つまり症状に苦しんでいる本人をそのままで受け入れてあげることしかできなくて、それが一番相手にとって大切なことだと思います。
受け入れるということで、最近感じたととがあるんですが、それは自分自身を受け入れるということが本当に難しいということです。私は今までずっと自分のことを受け入れていたつもりでした。というか、まあ自分のことが好きだったんです。もちろんああなりたい、こうなりたいという希望がたくさんありますが、最低でも今のままでもいいかという気持ちはあったんですが、それがこの一ヶ月あまり、ひどいアトピーに悩まされておりまして、昔からあったんですけど、前は服で隠せるところだったんですが、それが今回は首から顔まで症状が出てしまって、どうしても鏡に映る自分が許せないんですね。当然外出が嫌になるというか、できなくなりまして、三O歳目の前なんですけど、今閉じこもりを経験しているんです。人によって価値観というのは遣うでしょうが、嫌な自分というものを受け入れることがいかに大変かということを身をもって体験しているところなんです。
そんな時心の支えになるのは、やはりこんな自分でも大丈夫だよと見守ってくれる妻の存在だと感じたのです。こんな自分でも受け入れてもらっている、そう言い聞かせながら、少しずつ自分が自分自身を受け入れていく、この過程がとても大切で、これが回復の第一歩かなと感じています。こういった感覚を普通に得られるのが家族の基本ではないかと思います。
東京に「やどかり」という摂食障害者を持つ家族の会があるんですが、関西にこういうグループがないものですから、ぜひとも作りたいと思いまして、今準備しているところなんですけど、そんな中でたまにお子さんが摂食障害者で、その親御さんから「親は何をしたらいいのか」とか「どう接したらいいのか」ということを相談されることがあるんですが、前にも言いましたけど、周りの人聞は無力なんですね。自分の力で相手を変えようと思っても、無理だと思います。まずそれを自覚することから始まるんじゃないかと思います。
私のアトピーの話題の時にちょっと触れたんですが、嫌な自分を受け入れるというのはとても大変なことなんですね。人からどう見えていようと、自分が許せないものは許せないと思うんです。これは摂食障害者の本人たちも一緒じゃないかと思いまして、つまり本人たちは自分のことをどうしてもありのままでは許せないんだと思います。だから周りの人たちからの「そのままでいいんだよ」というメッセージがたくさん必要なんだと思います。それが自助グループだったり、一番いいのは家族からのメッセージだと思いますが、ただここで問題になってくるのは、親がいくら言葉で「そのままでいいんだよ」と言ったとしても、本心が実は「摂食障害じゃなかったらもっといいのに」とか「あんなんだったりこんなんだったらもっといいのに」とかいう気持ちが少しでもあると、それがそのまま相手に伝わってしまって、本人はやっぱり「私はそのままでは受け入れられていないんだ」と思ってしまうんじゃないかと思います。
あと実は親の方も自分自身を受け入れていないんじゃないかと思うんです。例えば、子供を摂食障害にしてしまった私はダメだとか、私自身ああだったら、こうだったらと自分自身を受け入れていない。ここに問題があるんじゃないかと思うんです。本来ならば配偶者の方から、つまり夫婦の聞でお互いをそのままでいいと認め合っているのが理想だと思うんですが、そうでない場合が多いようなので、例えば母親からすると、父親は仕事ばっかりで、家事とか家のことは私に任せっきりだと。父親の方は、自分は仕事をしているんだから、家のこととか子どもたちのことというのは母親に任せているんだといったふうに、責任を押しつけ合っているような気がするんですね。こういった関係の中に信頼関係というか、なかなかできにくいと思いますので、本人だけじゃなくて、家族の人たちも自助グループにつながって、そのままでいいんだよというメッセージをもらって自分自身を受け入れていく必要があると思います。
結局人聞は誰でも、自分自身を受け入れていないと生きにくいということになって、嫌な自分を受け入れるのには、周りの人間の協力がどうしても必要なのかなと思います。自分を受け入れることができるようになると、今度は自分を受け入れられないでいる人に、そのメッセージが初めて伝わるんじゃないかなと思います。ここで初めてそのメッセージをもらった本人たちが、今度は自分自身を受け入れていくということにつながっていくんだと思います。以上です。
(九七年八月収録)

三年後のめい

三年前の自分の文章を読んでみると、「懐かしいなー」と同時に、「私って変わったな」というのが実感です。三年前の私は、症状がなくなってたとはいえ、まだ「摂食の仲間」が必要だったんですね。かつて私の「摂食の仲間」だった人たちは、今では親友になり、お友達になりました。もう、「摂食の仲間」という間柄ではありません。また、現在の私には、摂食以外の仲間がたくさんいます。「仕事仲間」「遊び仲間」「主婦仲間」「お茶仲間」「趣味仲間」。そんな「摂食以外の仲間」を作ることができた自分が、とても誇らしいです。
だから、今は、自助の場に行くこともないし、行く必要も感じません。でも、私の原点は、NABAであり、自助です。安全な場を持たなかった私にとって、ミーティングや仲間は「家庭」であり、「家族」でした。ぬくぬくと心の芯まで暖かくなった時、私はようやく社会ヘ出て行くことができたのでした。だから、みんなも準備ができたら、社会ヘ飛び出して行こう!それで、外で傷ついたり、失敗したら、NABA(ミーティング)へ一戻つできたらいい。そんな情けない自分でいられるのが、本当の「家庭」だよね。というワケで、「家庭」での私はというと、「家庭って何をしても安心と思える場だよねー」とか理論を並べ立て、自由を満喫(勝手に自由と決めつけている)、病に伏す夫を横目に「行って来ます!」と遊びに精を出しているのです。夫よ、許しておくれ。話はそれましたが、現在の私は、アロマテラピーの学校運営の傍ら、摂食障害者を中心にセラピーやカウンセリングを提供しています。今は、セラピス卜とクライアントの関係ですが、かつては「摂食の仲間」だった人たちと日々、顔を付き合わせて、「あーだ、こーだ」とやっています。最後にNABAというゲリラ集団が、いつまでも摂食障害者のステキな「隠れ家」でありますようにと心からお祈りして……。

三年後のかずさん
久しぶりに自分の摂食障害という病気に対しての思いを読んでみて正直「我ながらええこと言っててんなー!(自画自賛こと思った反面、文卓早から当時のしんどき(アトピーが一番ひどい時期だったから)が伝わってきてなんか複雑な思いでいっぱいになりました。
あれから三年、いまだに病気療養中ということでコントロールの効かない自分の体と悪戦苦闘中ですが、ある意味では当時よりももっと病気(摂食障害)に対する理解が深くなっている気がします。「気に入らない」自分を受け入れるってホント難しいよね。
なーんて言う私を横目に、今ではすっかり人生を楽しんでいる妻が、今日も「この安心できるすばらしい、居心地の良い」家庭を放り出し遊びに出かけています。長年苦しんで苦しんでNABAにたどり着いた妻が、今ではこうしてお腹を抱えて笑ったり、毎日の生活を楽しんでいるという姿は、まあ、人聞こうも変われるものかと思う反面、その変化も実に頼もしいとも思えるのです。
現在自分はというと、療養を言い訳に、仕事は妻に任せっぱなしで、昨年CAP(子どもへの暴力防止)スペシャリストの資格を取った勢いで「ぼうしの会」という市民活動グループで幼稚園や小中学校の子どもたち、その保護者・教職員に向けてCAPのワークシヨップを行っています。

NABA(ももえ)より
めいちゃん、かずさん、近況ご報告までいただきありがとう。自助グループはともすると辛いことばかり分かち合うものと誤解されがちな中で、こうしたお二人のお話♥は、たくさんの方への希望のメッセージとなるでしょう。ただ私はNABAの仲間を「家族」「家庭」と思ったことはなく、家族や家庭とは全く別の、むしろそれ以上に御縁で結ぼれている人たちと思っています。また「隠れ家」や「ゲリラ集団」っていうのもねえ……。隠れているつもりもないし、ゲリラ活動しているつもりもありません。これは一人一人がNABAに期する思いがあり、その違いということでしょう。改めて、みんなにとってここはどんな場なのか尋ねてみたくなりました。

【ニューズ・レターNo.58:二OOO年 一O月】

週食ノムコウ

kei

九九年九月一三日(月)
わかりやすい事しか
わかろうとしない
役に立つものしか必要としない
そんな人聞になれないから
苦しいのかな。苦しいのも悪くないかも
……なわけないか。

九九年一O月二九日(金)
全ての世界で
自分だけ関係無いって感じ。
今までずっとそうだつた。
これからもずっとそう……。
慣れてるから平気だけど。

九九年一一月一日(月)
どんなにサイテーな時でも
昨日より今日がいい。
今日より明日がいい。
「あの頃は良かった。一戻りたい」
なんて絶対に考えたくない。

九九年二一月一O日(金)
愛される事を期待しなくていい。
愛される為に努力しなくていい。
ただ愛すればいい。

九九年二一月三O日(木)
このままで居たいのか
進みたいのか。
焦るべきなのか、黙るべきなのか。
無理をして疲れるべきなのか
踏み留まって悔やむべきなのか。
最終的にはいつも
二つにひとつを選ぶ事になる。
やり過ぎなのか
やらなさ過ぎなのか。

自然な流れは、どちらなんだろう。
いつも不自然な方、無理のある方を
選んでいる気がする。

私はひとりになりたいんだろうか。
私はひとりになりたくないんだろうか。

二OOO年一月三日(月)
少しずつ でも確実に
信じてゆきたい。

二OOO年一月一八日(火)
逃げまわってゴマかし続ける
ACの父親。
絶対自分は正しいと信じて疑わない
仕事依存の母親。
”家”は耐える所。
毎日苦しくてたまらない。
だから出掛けたくなる。
帰りたくなくなる。
好きな人達に会いたくなる。

何にも伝わらない。
毎日が決して解けない誤解の連続。
説明しても通じない。
諦めたつもりでも、
やっぱりくやしい。ムカつく。
でも、どうしょうもない。
苦しい。

二OOO年一月二六日(水)
冗談で「性格悪い」と言われ、
やたら嬉しかった。
だってホントは性格いいんだもん。
やりたくないのに、いつも「いいひと」
やってるんだもん。
だから「性格悪い」とからかわれるのが、いい感じ。

二OOO年二月二日(水)
全ての飾りを外したい。
全てを飾りまくりたい。
いつも相反する欲求ばかり。
どっちも本当の自分なんだろうけど。

二OOO年二月四日(金)
朝、発狂した。わめいた。
家でも外でも。
テーブルにガンガン頭を打ちつけた。
全ての事にビクビクした。
見るもの聞くもの全てが腹立った。
イライラした。
「太ってて醜い」と自分を責め続けた。
クスリも効かない。
どうにもならなかった。
何もかも壊してしまいたかった。

セミナーのスピーチどころではない。
身体をナイフで削り取りたい。
……自己否定が止まらない。
「そのままがいい」ってわざわざ言ってくれている人も居るのに、
「そのままが絶対イヤ」な自分が居る。

二OOO年二月二五日(金)
世界中から拒まれている気がする。
もう食べ物しかない。
吐けないから太る、醜くなる。
ますます誰にも相手にされなくなる。
どうしていいかわかんない。
もうどうにもしょうがない。
とっても、とっても、とっても辛い。
生まれてからずっと
ひとりぼっちみたい。

二OOO年三月一日(水)
「怒り」って出していいの?
許されるの?
やっぱダメ?
大人げない?
どうすれば良かったのかな……。

二000年三月二日(木)
怒っちゃった。すごく激しく。
けど、怒りなんでいつまでも続くものじゃない。
怒らせた側の人の気持ちも知りたい。
これからどうすればいいのか、
わかんなくなっちゃったから。

二OOO年三月三日(金)
何かね、辛いのよ。
過去は変えられないもんね。
でもね、失敗したなーとか、運が悪かったなーとか、
その時は不本意な結果になっても、後になって
かえって良かったかもしれないって思える事、
最近多いんだ。
もちろんね、恐いよ、
どうなるかわかんない事は。
たどり着くまではいつも
「どーにもならないよー」って
感じてるんだもの。
変えられないものを
受け入れなきゃいけないかも
しれないんだもの。

【ニューズ・レターNo.50:ー二OOO年 二月】

私のエロスが向かう場所――また歯医者に行こうかな――

スナドリネコ

NABAのスタッフルームの片隅で、ひざを抱えてももえちゃんに言った。「あーあ、ほんとにね、男切れちゅー感じだよ」って。「こんなことって、中じゃ絶対言えないんだよね」
中っていうのは、やどかりのミーティングのこと。私って、こっち側ですごーく楽に息ができる。ここで、やっと、”何でもありでいいじゃん”て自分に言ってあげられる。思春期やり直しだと、ワルぶってみることができる。不良してたばこも吸ったし、自傷もやった。
「中でね、『自傷した』って言ったら、空気固まっちゃって、みんな、あっち向いちゃうんだよ」「ははは……それは悲惨だね。ゃったかいがないよね」「いい男いないかな……」なんて言うと、「危ないよ、また共依存の人と、くっつきかねないよ」なんて言われたりするしね」
「失礼だよね、共依存だっていいじゃないね。何も無いよりずっといいよね」
「あーあ、ほんとにね、男の人にケアされたいの。また歯医者にでも行こうかな…。」
「なーに?それ?」
私って、小・中・高って、私立の女子校に入れられていたんだけど、中学の時に新任の男の先生に、スルスルってすり寄って、ほかにもそういう子はたくさんいて、私だけが特別ってわけじゃないんだけど、クラブの顧問だったから、高校卒業するまで、やっぱり目をかけてもらったし、その人ちゃんと私を受けとめて、認めてくれていた。その後は、ずーっと、男の絶対数が多い所にばかりいたから、いつもだれかしら側にいたし、だめになりそうな気配になると、「僕でよかったら、話を聞くよ」なんて、寄ってくる人が必ずいた、というよりは、私がダミーとして引き寄せておいたんだよね。
男っていっても、SEXじゃなくって、プラトニックに依存したいんだけれどね、私。年齢が上がると、それだけってわけにいかなくて、いらぬ代償も随分払ってきたよ。ほんとに欲しいのは、ハグどまり……これって、私の幼児体験や、父親との関係に何かあると思うんだけどね……。

結婚すると、スナドリさんの奥さんにさせられ、子供生まれたら、○○ちゃんのおかあさん。ネコはネコでいられなくなる。いっしょに遊んでいた男の子たちも、結婚したりすると、奥さんに気兼ねして、年賀状すらよこさなくなる人さえいる。何で、日本ってとこは、結婚すると、男と女は友だちでいられなくなるんだろうね。ってわけで、ほんとに周りから忽然と男が消えてしまった。

それで、歯医者だったよね……このあいだまでかかっていた歯医者なんだけど、ちょっと雰囲気のある男でね……予約の電話でね、声にひかれて、いいかなって行きはじめたんだ。歯医者っていいんだよ、椅子がベッドで、クライアントの私は、無力な子供のように横たわって、ぜーんぶお任せで、ゆだねるって感じ。しかも彼って、アメリカで勉強してきで、今風だから、クライアントはお客様で、絶対に医者面して偉ぶったりしない。あくまで、優しく、ていねい。そして、治療計画と今の治療についてちゃんと説明してくれる。
横たわったままで私は、彼の腕と胸で保護された空間の中で、口を聞け、のぞき込まれる。私の内側をつらぬく、器官の先端であるところの口を大きく開けてね。今まで一番親密だった誰よりも、もっと親密で淫廃な関係に思えない?奥歯をけずるために、彼の指が口角をさらに押し広げて、私の唇は、その指を感じる。彼はのしかかるように、私に集中する。痛みを与えないように、神経を集中させる。私の顔のわずかな歪みや、痛かったら上げる約束の、私の左手に注意を払いながら、ドリルの先端を私にあてる。「大丈夫?がまんできます?」とささやきながらね。今、この瞬間は私だけのために、彼はいるの。……そんなに、緊張しなくていいのよ、だって、私って痛みに対するトレランス(忍耐力)巽様に高いんだから……なんて言うとかっこいいけど、それって、鈍麻なんだけどね。
一度なんて、黙ったまま、私の手に何か握らせるの。心臓、パクパクつてなったよ。「それ、これからはめる金属。けつこう重さあるでしょ」だって。おつかしいでしょ。それって、ちょっとあぶないんじゃない?」って思う事もあるのよね。麻酔に対して異様に神経質で、注射の針さすたび、彼の方の体が、ビクンてなるの。注射する前にプレ麻酔っていうか、綿球に染み込ませた薬をしばらくあてであるから、本当に痛くないの。だから、そのビクンで針がささったことがわかるの。「あなたって、先端恐怖症?それとも、過去に、麻酔でしくじったことがあるの……?」って思っちゃう。そうして、あのすてきな声が私の名前を連呼するの。「スナドリさん、だいじようぶですかフスナドリさん?」って何度か繰り返されるの。初めての時は、そりゃあ驚いたわ。私は目を泳がせて、合図をする。
「大丈夫、意識はあるよ」って。ああ、もっと呼んでよ、どうせなら、ファースト・ネームで呼んでほしいな。
「ネコ、だいじようぶ?ネコ?」って、くりかえして!
もしもね、私が意識が遠のいてしまったふりをしたりしたら、あなたがどんな反応をするか、すごく興味あるのよね。いつか、私が急患で時間外の診察室に入れたら、絶対に聞くんだ。二人きりになれたらね。
「あなたは何を恐れているの?あなたの傷を話してよ。あなたのパパは、地元で古くから信頼を集める歯医者さん。あなたは、ママの大切な一人息子。何で外国の学校に行ったのフ日本で外されたりしたの?パパが病気でろくに診療できなくなってから、なんで近くの、乙この場所に開院したの?教えてよ。あなたが物語を語らなければ、これ以上は親密になれない。話してよ!私たちって多分同じ側の人間だと思うよ。一緒にダンスを踊らない…?」

……埋まらないことは、わかっているの。でも、こんなことを、夢想・妄想するほど淋しいんだよね、私って。関係性の噌癖あるよね、私。だから……また、歯医者に行こうかな……。

ももえちゃんと、話をしたのは、二~三ヶ月前、だっけ?「書いてね?」と言われて、やっぱり書いておきたかった。思いきり、はすっぱ(死語かもしれない)な文章で書いてみたくて挑戦してみました。

【ニューズ・レターNo.47:一九九九年 二月】

テレフォン・メッセージ-NABAの周辺で

玉川保健福祉センター・保健婦 遠藤厚子

こんにちは。保健婦の遠藤と申します。今回はどうしてもということで急に受けてしまったので、まだ何を話したらいいかよくわかりませんし、何が言えるのかな、とちょっと心配になっています。今日はまず保健婦という仕事がどういうものかということをちょっとお話した後で、自分自身がNABAの周辺にいて考えていることのお話をしたらいいかなと思っています。
保健婦というのは、どこの県にも町にも、多分村にも、絶対いる者だと思うんですけれども、ただ全ての保健婦が精神保健活動に関わっているわけではないというのが厳しいところです。私たちは精神保健活動の一環として依存症という病気につき合っているので、ご老人や赤ちゃんの相談を受けることを主としている保健婦には、ちょっと通じにくいのかもしれませんが、ぜひ皆さんの方から、保健婦の情報を集めてみて欲しいなと思います。行政の場にいる、相談する場所として、保健婦を使って欲しいと言いたいんですけれども、まだ相談を受ける機能として保健婦が十分に成熟しているとは私にも言い切れません。ただ少なくとも、どういうとごろに行ったら困っていることの相談を受けられるかということについて、保健婦は情報を持っていなければならないと思います。もし摂食障害について知らなかったら、こちらの方から教えてやるぐらいの気持ちで、まず連絡をとってみて下さい。
私個人としては、摂食障害、依存症、噌癖について、「知らない」で済ませるのは保健婦として怠慢ではないかと思っているものですから、ぜひ皆さんにもお願いしたいことです。自分自身のことで精一杯なのにと思われるかもしれませんが、どこでも相談できる場所を作る活動も、自分自身がいいかげんに生きるために、それから楽に生きるために必要な活動になるのかなと思っています。もしも摂食障害について知らない保健婦だとしても、少なくとも自分が苦しいんだということについての相談にはのってくれるはずです。誰かに相談しようと思うのは、かなり回復が進んでいると言えるかもしれませんけれども、誰に相談していいのかわからない時には、頭の隅に保健婦を覚えておいて欲しいなと思います。「相談を受けることを仕事にしている者にはわかるものか」とか、「公務員なんかにはやっぱり話せない」という人がいる反面、公務員だから安心して言えるという人も時々いらっしゃいます。
こう言つては何ですけれども、自分自身を信じていない摂食樟害の方が、同じ摂食障害を持った方に相談を持ちかけるのって、結構大変みたいですよね。まず信用していない自分と同じ病気の人のところにたどり着くまでに、足がかりというか捨て石でいいですから、保健婦に声をかけるというのは、ひょっとしたらちょっとの勇気でできるのではないでしょうか。そういう形で使ってもらって、そして回復している仲間と出会うということができたら、保健婦の仕事にも、もう少し広がりが出てくるのではと思っている次第です。
私自身は、仕事をしながら毎週ミーティングに出られる立場にありますので、自分のAC性に気づくとか、回復しようというふうにあがいていられるんですね。かなり恵まれている位置にいると思っています。でもやっぱり自分のことは職場の中だけでは振り返るのに無理がありますので、おかげさまで回復もせずに投げ出しもせずに、中途半端な今の状態が続いていると言うことができるかなと思います。これも、関係者の方が回復が遅い(※ー)ということの一例になっているのかもしれませんね。

今日、「NABAの周辺で」というテーマを無理矢理ひねり出したんですけれども、やっぱり私自身がどうしてもいつも「周辺にいる者」というふうに自分を自覚していると、改めて思いました。応援団に入ることについても、どうしても真ん中にはいられないな、という気持ちよりも、いつも自分は傍観者なんだなあというぼーっとした自覚と共に生きている時聞が多かったことに起因しているように思います。結構自分の生き方そのものと重なるものがあって、自分自身の問題を考えるということよりも、傍観者である自分の方を自覚して生きている方が楽だったということがあるのかなと思います。
何かあんまり自分が生きてなくっても、あがいている自分を端で見ている自分の方が冷静でいるから、そっちの方に気持ちを寄せるということで、あんまり熱っぽくなかったと思います。ただその熱っぽくないこと自体はそれほど苦しくはないんですね。苦しいとか自分が生きていないとは思えなくって、傍観者である自分の方が楽だというふうに今まで生きてきたのかなと、何だか今回のテーマを作った段階でやたらに反省的になってきています。
で、声も暗いですけども、基本的に考え方が暗いっていうのはわかつてはいるんですけれども、なかなか変わらないものですね。ただそれを変えようと思っているかともう一度考えると、あまり変えようとは積極的に思つてない自分に気がついたりします。とれが健康的じゃないと言われたらそれまでですけれども、今の自分でいいんだよって、積極的でなく思っています。積極的でなくっていうのは、もう「この自分が好きーつ」ていうのとは違うんですけれども、「これでもいつか」というぐらいの、わりとあきらめも含めて「もう今のでいいや」というのもありますね。ただこの「今のでいいや」って思えたのは、ミーティングに出るようになって、五年か六年たってからの気持ちですから、この仕事に就いたことがとても大きかったです。
そういうふうに思えた時に、NABAという会に出会ったわけですけれども、「もうひとりの自分」がNABAのメンバーになってるかなと時々思います。自分の気持ちというのも結構コロコロ変わってしまうところがあり、あまり意図的に選んだとは思いませんけれど「今これでいいんだ」という自分と、「いや、これもやらなくては、あれもやらなくては」と思っている自分っていうのは、ほとんど同時進行ぐらいでいたりしますよね。その時にどっちに転がるかっていうのは、本当に無意識ですね。そういう意味でNABAのメンバーに自分自身が見えてしまったり、とてもうらやましく思ったり、今自分が選んでこなかった自分を見てしまったりしています。だからこそ、NABAとか摂食障害について、他人ごとというふうに切っては考えられないところがあります。それで応援団に入ったところもあります。どちらかというとメンバーの方の積極性に引っ張り込まれてしまったということですね。
今、周辺にしかいないという自覚は、今の私にはほどほどのところだと思っていて、あまり自分が一生懸命にやってしまうと、それはイネイブリング(※2)になってしまうのではないか、知ったかぶりをしてやり過ぎちゃっていけないよねえっていう思いと、自分にはもうできないよねって思っているところがたくさんあって、できないと思いながらもこんなこと、メッセージを話すことまで引き受けてしまう頑張りをそのままNABAのメンバーに投影してしまうのがとても怖いです。まあこれも考え過ぎでしょうけど。
まずNABAのメンバーの元気、回復できるんだというイメージをNABAの皆さんが教えてくれたのは、とても大きいと思っています。だからこれは我々相談を受ける者としてだけではなく、これから回復の道を歩む人たちに、とてもとても大きな財産だし、とても嬉しいことだと思います。NABAのスタッフに、もしまだ会っていない人がいたら、ぜひ一度ミーティングで会って欲しいなと思います。そのためにスタッフの方も、いいかげんというよりは一生懸命やっちゃってるところはあるのかなーと思うんですけれども、どこかで会ってみることは、ものすごく大事なことになるのではないかと思います。
今NABAのスタッフがあちこちのミーティングにメッセージを届けに行ったり、フォーラムをやったり、いろいろな活動をしていますけれども、その活動を支える力、エネルギーっていうのは、まだまだ知らないで困っている人たちへ届いて欲しいという思いと、それからその活動自体が自分の回復につながるっていう両方の気持ちがあるんだろうなと思っています。私たちはそれを本当に端から見ているだけかもしれませんが、それでもスタッフやメンバーの人に「来てくれてありがとう」と言ってもらえると、何だかひょっとしたら私でも役に立ったのかしらっていう気がして、ついやり過ぎてしまう。嬉しくなっていろんなところに出かけて行ってしまうっていうのがありますから、多分みんな一緒だと思うんです。「ありがとう」とか「よく来たね」ってほめてもらえたりすると、嬉しくなってまた次も行こうっていうのは、スタッフもメンバーも私たちもみんな一緒なんですね。NABAはその点がとても居心地のよさというのを気をつけてやっているのかなーと思います。
ミーティングに行っても、どんな会に行っても、最後にハグをしてもらったり、握手をしてくれたりっていうのは、何だかとてもほっとすることなんですね。まだ私はハグには慣れてませんから、構えてますけど、構えている、硬直している私でも、とっても優しく抱いてくれます。こういうふうなことがごく普通に、今までできなかった方が変なのかもしれないなと思わせる、とても優しい魅力があると思います。

私たちは応援団とか専門職とか関係者とか、いろんな分かれ方をしてしまうんですけれども、でも気持ちは多分NABAの回復者としてのグループ、もしくはこれから回復しようとしている人たちへのメッセージを運ぶことの楽しさとか、そうですね、回復した人に出会う嬉しさというものに支えられて、続けていくのかなという気がしています。短すぎるかもしれませんけれども、今日はこれで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

(九七年一月収録)
【ニューズレターNo.45:一九九九年 九月】

※1…係者の方が回復が遅い:関係者は自分の問題に気づきにくい、という考えから、「本人、家族、関係者(医療援助職など)の順に回復する」といわれる。
※2…イネイブリンク:アルコール、薬物、ギャンブル、仕事などにのめりとんでいる人々を支えることで、依存症を維持、増悪させてしまうこと。

母と娘の関係から考える―あの時、私の母は死んじゃったんだ

静岡 アケミ

NABAスタッフの皆様へ
日々、寒くなってきましたが、いかがお過ごしですか。
先日は静岡にメソセージを運んでいただいて、本当にありがとうございました。
いち摂食障害者として参加させてもらいました。
「母と娘の関係から考える」というテーマで、私自身そのことを含めて自分のことをすこし書かせて下さい。

私の父は、アルコール依存症です。母は、私が高校三年生の時に家を出ました。私とひとつ遠いの妹を引き取りました。私は家に残されました。一二年たって、私もあの時、連れていってもらいたかったと初めて泣くことができました。
離れることができなかった父と離れて三年以上になりました。父は私の職場の名前と電話番号しか知りません。私は黙って家を出ていきました。
母は、私がどんな仕事をしているのか知りません。母と離れて四年近くになります。
妹も私の職場の名前と、その電話番号しか知りません。連絡を断って二年半になります。
私はアルコール依存症の彼と一緒に生活をしています。彼の住む1DKのアパートに、スーツケースひとつで転がり込みました。
彼はお酒を飲まなくなって八年になります。
生活し始めて最初の頃は、私はミーティングにつながっていなかったので、いろいろありました。
ミーティングにつながって二年近くになります。最近、二人の生活が日々平安の中にあるなと思います。
先月、二人で二DKのアパートを借りました。トイレとお風呂が別にあって、お風呂にお湯を入れて入ることができます。嬉しいです。

私の母は家を出る時、男の人がいました。以前にも……そういえば私が小学生の頃、学校から帰ると、家に知らない男の人がいたことがありました。その時の母親は、とても嬉しそうな顔をしていました。私はとても嫌な気分になり、二階にかけ上がりました。小学生の時は嫌な気分になっただけでしたが、高校生の時は、母は女だったんだ、私にとって母親は母親でしかなかった存在なのに、実際は女だったんだということが分かってパニックでした。ショックでした。
その時の私は、私にとっての母がひとりの女性であるということは理解できませんでした。
私は母親が女になるならば死んで欲しいと思いました。私は母親の着ていたパジャマをはさみで切り刻みました。
母が家を出て行ってすぐに、私は学校の帰り道、偶然出会った伯母から、あんたのお母さんは万引きをしたんだと聞かされました。
家の恥、だから言いたくなかったけど、あんたは長女だから言っておくって。
私の母は万引きをしました。私が小学校四年生の時です。盗んだのは下着だったそうです。当時、社宅に住んでいたのですが、うわさはアパートじゅうに知れわたり、そこにいられなくなり引越ししました。離婚話も出たそうです。でも子どもが小さいからという理由で、離婚はしなかったそうです。
その話を聞かされた時、私は軽べつしました。その話を私にした伯母に対する怒りもあり、その時私は、人を信用しないとかたく心に決めました。
自分ひとりで生きていこうと誓いました。だから私はずっとひとりでした。

今やっと、あの時の母は万引きをすることでしか自分の思いを表現することができなかったんだろうなあと思えるようになりました。
万引きをする前にも、した後にも、母の本当の気持ちを聞いてくれる人は誰もいなかったんだろうなと思うと、つらかったろうなあと思います。

母は女になってしまったので、私は母を失いました。その空虚感、大きく胸にぽっかり空いてしまった穴を-つめるために、私は男性や食べ物に依存してきたんだと思います。
私はやさしくて暖かい、本当のお母さんを探し求めてきたのです。

私は昨日、ミーティングでこの話をしました。夜、仲間から電話があって二人で分かちあいをしました。仲間が気づかせてくれました。あの時、私のお母さん、死んじゃったんだ。私のお母さん、死んじゃったんだって。

そのあと私は、気分が落ち込みました。寝る前に、彼に言いました。

私のお母さん、死んじゃった。
私、本当のお母さんが欲しいって。
彼はお祈りしな、ステップやりなと言いました。
その時、ハイヤーパワーという言葉が出てきました。
彼は寝かしてくれえと言い、私は本当のお母さんてハイヤーパワーなのかなという思いをかかえて、シブシブ寝ました。
今日、朝、彼に「おまえ昨日、寝ながらキャハハハ笑ったぞ」と言われました(想像したらコワイ)。

私はハイヤーパワーという言葉に、男性的なイメージを感じていたので、今はそうなのかなあというところです。
長くなりましたが、これで終わります。たくさんの仲間の力を借りて、これを書くことができました。
ありがとうございました。

たくさんの仲間に感謝をこめて
アケミ
平成一O年 一一月三O日

PS.ニューズ・レターに載せて下さい。お願いします。
最後の一枚、レポート用紙でゴメンナサイ。

【ニューズ・レターNo.38:一九九九年 二月】

NABAへのお願い

ある摂食障害者の自助グループ

平成一O年七月八日
NABA運営委員会の皆様へ
梅雨明けも近くなり、連日うだるような暑さが続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて、先日お電話でもお話ししましたが、現在私たちはNABAからお借りしたノート(※)を使わせていただいて、ミーティングを行っています。最近になりまして、足を運ぶ仲間が増え、ノートの数が足りない状況となっています。NABAに入会している仲間は自分のノートを持ってきていますが、入会していない仲間が多いため、ノートを数人で見るというのが現状です。そのことで話し合った結果、独自のノートを作り、メンバー全員に渡してはどうかということになりました。
そこで、ノートを作るにあたりまして、NABAノーから文章、ステyプなどを使わせていただきたいと考えております。
つきましては、運営委員会で議題として、私たちのグループにNABAノートの文章などを使わせていただけるか検討していただきたいと思います。お手数をおかけしますが、宜しくお願い致します。
運営委員会の当日には、メンバーが行く予定となっておりますので、その時に改めてお話したいと思います。
まずは流儀ながら書中にてご依頼まで。

トモ&トモコ

NABAからの返答

前記のようなお手紙が、ある摂食障害者の自助グループからNABAに届きました。早速、七月一四日のNABA運営委員会で、「NABAノー卜にならって、独自のノートを作りたい」という要望について話し合いの場を持つことになりました。当日は、前記のグループのメンバーのトモちゃんとトモコちゃんも駆けつけてくれました。

実はそれ以前に、NABAノートの文章を、無断で使われていたということがあり、話題になっているところでした。具体的にお伝えすると、援助者(この場合は心理士)の方が中心になっている、ある(自助)グループから、そのグループやミーティングの紹介のチラシが届いたのです。そのチラシは、「NABAとは……」の説明や、「NABAでの回復とは……」の文を、NABAの名前の箇所が、そのグループ名に入れ替えただけで掲載されていました。文章には、その援助者の方のお名前で「これから頑張っていきますので、よろしく」と言った挨拶文もありました。それを見た私たちは、「使うなら使うで、何か一言、前もって言ってほしかった。仲間だったらともかく、援助者が……」との感想を持ちました。時聞は少したちましたが、そのグループの方に、率直に自分たちの意見を伝えようということになりました。ただ、「では伝えるって何を?」というところで運営委員会の場で話し合おうということになったのです。

今後、こうしたことにどう対応していきたいか?ここではとりあえず、どのような返事をするかを話し合って出た案をお伝えします。

一、あくまでもNABAノー卜のまま利用してもらい、NABAという名前のところは、そのつど各グループ名で読み替えてもらう。
二、文章も含めて、全般的に、そのグループ独自の物を作ってもらう。
三、NABAの名前のところを各グループ名に替えてもらってよいが、文章の最後にでも、一言「NABAから」といった文を添えてもらう。

ちなみにこれまでは各地域でNABAの活動に賛同して、摂食障害本人の自助ミーティングを開いているところには希望があった場合、ミーティング用として、NABAノート三冊をお渡ししています。
他に、NABAの財政難を苦慮している方から、NABAノートに値段をつけて各グループに買ってもらうという案も出されましたが、やっぱりNABAノートは会員にとって大切な物だから、売り物のような形にするのは止めようということになりました。
NABAノート自体や文章は、その時々のメンバーたちで考えて作った物ですが、作る際に、私たちもたくさんのグループから言葉をお借りしたり、寄せ集めたりしたこともなかったとは言えません。またノート内には、精神科医・斎藤学氏による回復や成長に向かうための文章も載せているのが事実です。それでもやはり自分たちのカで、作りまとめた物です。そうした物が他で使われたり、望まれるのは、とても誇りであり嬉しいことです。本来、けちくさいこと言つてないで、どうぞどうぞと言いたいところもあります。ただ、何のご連絡もなく、使用されるのには、やはり抵抗があります。
今回は、これも結論が出ていないまま、とりあえず現状のみお伝えして終わりにします。何か良い案がある方は、どうぞ教えて下さい。お知らせ下さい。

(文責・桃江)
【二ユーズレターNo.31:一九九八年 七月】

※NABAノート…NABAメンバーたちが独自で作り使用してきたノートで、メンバーのみに配られ、ミーティング時に使用することを主な目的とした非売品のパインター式ノート。

医療関係者にもの申す

やどかりメンバー やよ

青梅市のある老人病院では、患者第一、患者はお客様という趣旨を徹底させるため、「患者様」と呼ぶようにしているそうです。どう呼ぶか呼ばれるかということはどうでもいいことですが、患者をお客様であると認識することについては、ようやくそういう医療機関が現れてきたかと嬉しく思います。
ある日曜日、娘Mが、吐けなくて苦しい、医者に行きたいと言うので、どこに連れて行っていいかを一一九番にかけて状態を話し尋ねました。そして教えられた休日診療をしている病院(生協系)に行きました。当日当番病院として診療中のところですから、閉めているところをたたき起こしたわけではありません。ところが受付も、問診をする看護婦も超スローでさんざん時聞を経過して、ようやく診察室に入ったかと思うと、また「どうしました」と聞きます。「何のための問診なんだ、色々聞いたくせに」と思いつつ、それでもMは辛抱強く同じことを答えました。摂食障害でいつもはちゃんと吐けるのに今日は吐けないので吐けるようにして欲しいことを。そうしたら奴は、「、どうして食べたものを吐くの。体に良くないよ。どうしても吐きたいと言われでもここは内科だから吐かせることはできない。外科に行くように」と言うのです。その問、家を出てから約二時間は経過していました。
私は、Mにもう一度一一九番に聞いてみるからとことわって、公衆電話で外科の休日当番医に尋ね、再度状況説明をして吐かせてくれるかを確かめましたが、それは診てみなければわからないということでした。
とにかく、そこからかなり離れた場所にある外科に行こうとMを促すと、Mはもう行かない、また同じことを繰り返して時間ばかり経つし、嫌な思いするのはもういいよ、と言うのです。
この時、普段感情を表さないMが久しぶりに腹を立てたことを、うれしく思ったのは事実ですが、それはそれとしてこの一一九番の電話担当から医師まで、医療の専門家のくせになんと認識不足か、摂食障害について知らないなら知らないと言えばいいのに、根ほり葉ほり聞くだけ聞いて、何もできないんじゃ、この時間はなんだったのよと私も頭に来ました。
このように医療関係者のプロとしての知識不足は論外ですが、偉そうな態度やつんけんしたもの言いをすることにもよく出会います。マスコミで取り上げられるような有名診療所などでは、電話で最初に応対する受付からして横柄な態度をとるのはどうしてでしょう。
また弱い立場の患者に対して一段上の高みに立って、「助けて欲しいの?」、「何とかして欲しいの?」とまるで幼い子供に対する親のような態度は、小児科にのみ許されるごとだと思います。
対等に大人同士として、もっと言えば「お客様は神様です」位の気持ちで向き合って欲しいと思います。
時間に追われる忙しい毎日で余裕がないごとは良くわかりますが、サービス(広い意味の)を忘れないでいて欲しいと願っています。

【ニューズレターNo.31:一九九八年 七月】