ファイヤー!――ワークショップを終えて

伊藤ななえ

ワークショップが終わった。今年三回目のワークショップだ。第一部、第二部と分けた参加方式にして二度目。いきなり二泊するのは……という人、仕事が忙しい家族、興味はあっても「やっぱり土日でないと」という医療・福祉の関係機関にいる人。いろいろな人に参加してもらいやすいようにと考えた方式だ。開催するほうとしては、正直言って名簿作りや部屋の申し込みなどがかなり面倒だ。今回はじめてスタッフとして参加した仲間と、私も一緒に混乱した(ワークショップ委員のみんな、お疲れさま!)
思い起こすと、今回は準備段階から「みんなでやった」という実感が強い。それは私自身がワークショップに少し慣れてきたということもあるのだろうが、それにしても今回は、みんなで時聞をかけて少しずつやっていった感じがする。はじめて試みたミーティングがあったし、スタyフ参加とそうでない仲間の参加の区別などの問題もあって、私などは見ていて少しじれったくなってしまうこともあったけれど、ていねいに確認しあいながら話し合った。前日に荷物を運ぶのにいつもお世話になっていたやどかりのお母さんの車も、今回はお願いしなかった。スタッフの一人が買って出てくれたからだ。
今回はいつもの招待参加の枠を思いきって広げて、できたてのグループや家族のグループにも招待の葉書を出した。合計で二二グループになった。会報やニューズ・レターで紹介したグループも、こんなにいろいろあったのかと驚いた。
当日は台風が関東地方を通過する、という荒れ模様。地方から来るみんなの交通機関は大丈夫かしら、キャンセルがたくさん出たらどうしよう、などと少し心配だった。初日の午後にはめでたく台風は去って、カッと暑い日差しにびっくり。通常では止めてしまっている冷房を急きょいれてもらってほっとしたのも束の間、二日目はもっと暑い熱風が吹き荒れる「おお!嵐」となった。今回はじめて来ていただいたアサーティブ・トレーニングの松田先生いわく「フアイヤ!状態」となった二日目のシンポジウムは、武田さんが地雷を踏んでくれたおかげで(!?)、みんなの言葉が色とりどりの花火となって作裂したようだつた。私はそれをただ呆気にとられて見ていたような気がする。
武田さんの言った「覚悟する」とか「諦める」とか「普通」という言葉が起点となって、みんながこの言葉に対する自分なりの体験を話した。それはまさに「体験談」だった。自分のかけがえのない体験から話されることだったから、誰もそれに対して意見なんかできない。この説得力の鮮やかさといったら!
私が知っているいわゆるシンポジウムや学術的な議論の場だったら、誰かが言ったことに対する反応があり、それが新たな議論となって次第にある事柄が一つにまとまって結論めいたものとして提出されてその場が終了する。ミーティング形式や体験談だと、その場のまとまりや結論が出されないことの不全感をいつも感じてしまう私なのだが(そもそも個々に違っているからこそ意味のある体験談に、一般化や抽象化が不向きであることは承知していても)、今回は違っていた。はじめは武田さんに対する反論という雰囲気であったが、みんながそれぞれの体験談のなかから「諦める」ことや「覚悟」ということを話していくうちに、次第に武田さんとみんなの体験談の共通点が見えてきたよう、だった。私は武田さんの言ったそれらの言葉の向こうに、語られなかった武田さんの体験談を勝手に想像していた。みんなの語りを聞いているうちに、みんなが独りで「覚悟」し、独りで「諦め」ょうとしてきたその悲しさと冷たさが私には伝わってきた。「覚悟する」こと、「諦める」ことは一人ですること。その一人の作業をNABAに集まっている人たちはすでにやってきていたのだ。たった「独り」で。だからこそ仲間の存在がうれしかった、仲間に会つであったかいと感じられた。独りの寂しさをイヤッてほど知っていたから。「ああ、そんな思いがあったから、だからみんなはNABAにいるんだ」と思った。そしてその「みんな」のなかには、確実に武田さんも含まれていると、そう思った。武田さんは仲間に会いたくて、専門家になったのではないですか?
専門家ということで思い出すのは、「医者は靴です。はいてみて痛かったら遣うのにはきかえていいのよ」という後藤先生の言葉だ。後藤先生の静かではあるがきっぱりとした物言いには、今回も胸のすく思いがあった。私はこの問題に関心をもちはじめた時から、専門家、特に精神科医などの医者の摂食障害者に対する明らかな偏見や固定化した見方を感じていた。それはなにも摂食障害者に対する精神科医に限ったことではなく、精神医学自体がもっている、いや医学全体がもっている治療の対象としてしか扱わない倣慢さからきている問題であるのだが。とにかく摂食障害に関してはいろいろなことが専門家によって言われているので、医者の治療方針に合わないと感じても不思議ではない。でもとかく人は「高名な」先生にかかりたがるし、特に摂食障害の場合は先生に見放されたくなくて「いい患者」をやってしまいがちだ。ひどいことを言われでも、不快だと感じても先生から離れることができないとか、途中で行かなくなったことに罪悪感を感じていたりする人の話をよく聞くので、私は「医者は選んでいいのよ」というこの一言を日頃から後藤先生に言ってもらいたくて仕方なかった。後藤先生、ありがとうございました。そしてこれからもみんなの昧方として、私たちが感じる疑問や質問にやさしく、きっぱりと答えてください。
私たちがじっくり話し合って準備したと同時に、たくさんの人たちの参加に支えられて終わったワークショップだった。みのりの秋、収穫の多いワークショップが無事終わったこと、思い出がまた一つ増えたことに感謝いたします。みなさん、また会いたいです。

【ニューズ・レターNo.22:一九九七年 一O月】