相のタカボ
今回ニューズ・レターに、親の立場から書いて……と言われて、非常に困ってしまいました。どうせ書いても、うまくは書けないとわかっているのだから、期限日までの一ヶ月の聞に早く書いてしまえばいいのに、私のくせで期限ぎりぎりにしか書かない。思えば書く物だけではなく、日常たのまれたことでも、そうなのです。すぐにやりたくないのか、やらないのか、大変気むきな私です。今、兄弟のことを思い出したので、それについて書いてみます。
私の兄弟は、三男四女です。私は、そのちょうど真ん中で三女です。何の問題もない裕福な家族と思って、私は育ってきました。それは物質的な裕福であって、父の職業は軍需工場に品物を、特にその中でも食料を納める大きな工場を持っていました。家の中には常に食べ物が、散乱していた様に思います。
私の母は、使用人がたくさんいるというのに、いつも忙しくしている人でした。それが関係しているのか、私の小さい時の母の思い出はあまりありません。でも、ずーっと心に残っていることがあります。母は無神経にも口癖の様に、自分の子供たちに言ってきたことがありました。それは妹をとても可愛がり、常に「頭のいい子だ」と世間にも自慢をしていたことです。私はとても悔しく思っていたし、妹に対して葛藤があったり、コンプレックスを感じてきました。だけど表面的には、とても仲のいい姉妹であったので、他人にも羨ましがられていました。母は着るものにしても、私まではお下がり、妹には新しい洋服を買ってあげていました。このことも、つい最近までは、自分のひがみだと思っていたのですが、理由はあったのです。私は、よく兄と遊ぶことが多く、木登りをしたり、棒切りを持って「戦いごっこ」をしていた記憶があります。洋服は、いつもボロボロにきらしてくる。この様な遊びをしている私に、母は「お前は男の子であればよかったのに」「おもちゃ屋に行って、おちんちん買ってきてくっつけてしまうぞ」といったことを幾度となく言い、幼い私は、本当に売っているものだと思い込んでいました。そして私は、小さい時から家族、親戚、近所の人たちに「タカボ」と呼ばれていました。今でも兄弟姉妹はこう呼んでいます。私の田舎である秋田では、私より年の老いた人たちは「タカボさん」と言って「さん」をつけて呼んでくれています。何十年も、この呼び方を不思議に思ったことはありませんでした。兄は「ヒロボ(弘ごと呼ばれていましたが、変ではない。というのも、私の故郷では、
男の子を可愛がって呼ぶ時に、名前の後に「ボ」をつけて呼ぶのです。だから、かえって兄は長男だから、可愛がられたのか、と思ってしまう……。
今、自分のことをいろいろな角度から点検しているところなのです。
私は、鹿児島出身の跡継ぎの長男と結婚しました。
夫は先祖代々を守らなければと思っている緊張感のある人でした。私は女の子を三人生みましたが、最初から男の子を期待されていました。長女、次女、三女。期待はずれの子供。私は夫に対して、すごく罪悪感を感じ、男の子を生めない女は女でないような、乱暴なあっかいを受けました。今、振り返ってみると、私は夫からだけではなく、もともと母からも女性として認められていなかったと思います。
最近は、夫とのやり取りで、嫌なことがたくさん出て来ています。今、それに直面しているところです。世間には、良い夫婦の仮面をかぶっているので、仮面をはずすのには、まだ時間がかかると思います。今は自己認識をして、これまで自分に対する評価が低かったのですが、少し見直しする中、変化が出来てきています。長い問、摂食障害者の母親としてしか語れなかった自分でしたが、娘がたくさんの症状を通して、家族にも、そして私自身の生き方にも、体を張ってメッセージを送ってくれたことに、またこれまで出会ってきたたくさんの仲間の方々にも、感謝と喜びを送り続け、誇りを持って歩み続けたいと思います。自分に今日も、「まる」をつけて、これからも生きていきます。
【ニューズレターNo.11:一九九六年 一一月}