鋸灸師 田中美津
ある一点で思い切らないと、生きてくって余分にこんがらがっちゃうような気がするの。その一点とは誰にとっても現実とは”今だけ”ってこと。手にできるのは”今だけ”だ。頬に受けてる風を「気持ちいいなあ……」と思ってる――その今の自分が生きてるってことの全てになれば、充実とか幸せなんてあっちにもこっちにもゴロゴロしてる。
オイシイものを食べてああ幸せ。空が蒼くてああ幸せ。うまい具合にデンシャが間にあって、なんて私って運がいいんだろう。屈託なく目先の幸せに喜んでる私って、ほとんど猫だ。小さな生きものだ。
”小さな生きもの”になれば、他の”小さな生きもの”がよく見えてくる。街路樹の根元にはえてる夏草、精一杯歌うセミ、横丁の猫……。人間以外の生きものは、すべてが今だけμで生きていて、ぷ7だけNの輝きに満ちている。想えば他の小さな生きものたちから、ぷ7だけμパワーをもらって生きてるような気がするわ。どんな時でも、私たち生きものは”今”という時間を一緒に生きているのです。
”小さな生きもの”になって、他の”小さな生きもの”と肩が組めれば、そんな時間、そんな世界が見えてくる。目に見えない、そんな世界の関係性を知覚しないと人聞はやすらいで生きることができないんじゃないか……と思うのね。天はトーチャン、地はカーチャン、猫、コスモスは私らの兄弟だわ。さて過去こういうことがあったから、今私は拒食・過食をしてるんだ、不幸なんだというような”分析”ばかりしてると、一生不幸なんじゃないかと私は思う。それつである種のナルシシズムだ。
ナルシシズムは誰にでもあるけど、そういうかたちで自分を”特別視”してるのってヤパイぜ。”不幸な過去”を語れば語るほど、思い出せば思い出すほど、それを強化していくことになるもの。その揚句に自分の人生を絶対的不幸のように思ってしまう…。絶対的不幸なんであるわけないのに。
ヒドい親だったから早く自立できてよかったわ、というのが人生です。不幸と幸福なんて一枚の紙の裏と表、だ。これというスゴい不幸がないから、あいまいな幸福の退屈さにイラだって拒食・過食をしているんじゃないの、あなたたちって。現実のあいまいな幸せより、フィクションとしての絶対的不幸の中で輝けるヒロインをやろうとしてるのかな。そうしたい気持ちはわかるけど。
でもね、どんなに淋しくったって、空は蒼いぜ。コスモスは美しく咲いている。気づけば世界は満更じゃなくなる。要はそのことに気づくかどうかだ。
拒食ができる、過食ができるってことは幸せなととです。過去がどうであれね。自分の快楽に思いつきりふけられるなんて、生涯で一度もないヒトもいるんだから。曲がりなりにもそれが可能であることの幸せ。その幸せな”今”を自覚的に生きてほしい。
願わくばアッケラカンと。
死ぬかもしれないって?それやしょーがないよ。なにやったって死ぬ時は死ぬ。バイクが好きで事故って死ぬヒトもいれば、拒食でやせ衰えて死ぬヒトもいる。戦争みたいな一律な死は貧しいけど、さまざまな死はこの世界の豊さの一部です。自分なりの一生を終えて、静かに死んでいく虫や花を見るように、自分を見つめてみてくりィ。
拒食の人生は、虚飾の人生よりはるかにマシだと私は思う。過食なんて、胃の弱い私としてはうらやましい限りよ。あなたも私も猫もゴキブリも、果たして明日生きているかどうかはわからない。いのちってそういうものだ。拒食・過食の好きな生きものとして、どうか幸せな今を生きてくださいね。NABA独立記念おめでとう!