山田きみ
昨年(一九九三)夏、斎藤先生のお声がけで山口県で生まれた、摂食障害の子をもっ親の会報『私を生きよう新聞』は、横浜の夏目さんの所へ引越して行った。三年半二三号にして私のパワー切れで編集交代。発刊のエネルギーとなったのは地方に住む者の、その筋の出会いのない孤独感、絶望感の中でのワラをも掴みたい、追いつめられた気持ちだった。新聞作りの第一歩は、まず自分が裸になることに始まったが、それはとりもなおさず娘の症状を人目にさらすごとでもあった。正直なとこセミヌードまでもゆかないもので、読まれた方の中から「きれいごとに終始している」「本音が出ていない」等の批判を受けたが、娘からは「さらし者にされた」としっかり恨みを買った。そんな中で新聞は見る聞に全国に拡がってゆき、「この苦しみをわかる人がいる」「自分一人ではない」ことを知ってどれだけ救われたかと、多くの親の声が寄せられた。
投稿の内容も「ネクラの合唱」と田中美津さんに評された初めの頃より、少しずつだが変化が見られるようになった。
「食べた、吐いた」の話だけで嘆き合うのみでは一歩の前進もない。でもそこを通らなければ次のステップに移れない。嘆き合ってネクラの合唱をやることも私達には必要だった。
いや現に今必要な人もいる。ひっくるめて私達の人生は一度っきり、その持ち時間も少ないの、だ。子の摂食障害一色に塗りつぶして終わるのではあまりに悲しい、情けない、悔しいではないか。十字架をいくつも持つAさん、Bさん、Cさん、私。でもそれらを負う私達の背は一つ、死は一度。「さすれば私を生きよう、明るんで、少しは輝いて生きてゆこう」そう心に決めて「今日一日」に立ち向かう。
その私達親の背を押してくれる新聞に、夏目編集長を中心に皆で育ててゆきたいと思う。目的半、はでダウンしてしまった私の切なる願いである。祈りである。