はじめに

NABAは一九八七年四月、精神科医・斎藤学氏(現・家族機能研究所代表。以下、ここでは「先生」とお呼びする)が摂食障害者の自助的治療グループとして創設した。当時の主な活動は、先生が指導する定期的なミーティング開催であった。それから約一年後、転居のため継続的なミーティング参加に支障をきたしたある女性が、「仲間との交流を続けるには通信を出したら?」との先生の提案を受け、作り上げたのが『いいかげんに生きよう新聞』である。自らが完壁主義ゆえあえてこう名づけ、しばらくはその一連の作業をすべて引き受けていたと聞く。以来、この『新聞』が紙上のクローズド・ミーティングの場として会報となり、今日までの一四年間毎月一回の発行が続いている。
私がNABAにつながった一九八九年の秋には、先にグループに参加していた仲間たちが少しずつ体験発表や催し物の手伝いなどで活躍し始めていた。「他のグループを見習ってここも私から自立してほしい」と先生から徐々に一言われるようになった。冗談とも本気ともつかない口振りに見えたが、当時の私(たち)の方は、先生と離れてやっていきたいとも、ましてや自分たちだけでやっていけるとも想像さえしなかった。
ある日、先生が「NABAで会報をもとに本を出版しよう。皆で進めて」と私たちに呼びかけた。メンバー数名で早速作業に取り組んだが、一生懸命だけが空回りしてなかなか進まなかった。
その後突然に、「あの本はもう私の方で作ることにしました」という報告を受けた。でき上がった本の冒頭文に、「時代の酸欠を先取りし悲鳴をあげているカナリア」と私たちのことをたとえであり、胸がジlンとした。だけど同時に「メンバーに任せていては永久に本はできない」と判断した経緯を読んで、感激だけではない涙が止まらなくなった。目の前にある本のでき栄えに圧倒され、先生のすごさと重なった。結局はNABAが恥をかかずにすみ、助けられたと痛感させられた。そもそも私たちが任されたと意気込ん、だこと自体が間違いで、はしゃいでいたことさえ急に恥ずかしくなった。ましてや途中やる気をそがれたと、先生に対して悔しさや悲しさを感じるとはとんでもないことだったと思った。「たかが摂食障害者のくせに、なんて図々しい」と自分を責め泣いた。自身の愚かさから泣いているの、だろうと思いたかったが、言葉にならない別の感情も渦をまいていた。その頃の私(たち)は、少なくともグループの運営に関して心底悩む必要がなかった。困り始めても、先生がほとんど解決してくれた。その理不尽さや不満に口をとがらせても、先生に可愛がられることを意識したし、何よりも私自身の表現できない思いに向かい合うことが怖くて、すぐに笑ってごまかしていた。
空気が薄かろうが濃かろうが逃げ出すときにはとっとと逃げ、弱りすぎて逃げ出せなかったことも繰り返してきた私だった。でも、飛び出すだけや悲鳴を上げて息絶え絶えになっているだけの私たちではないことを、先生自身が指摘していた。NABAが自分たちの大切な居場所だからこそ、私たちにも何かやれる力があるんだと知りたかったし、しっかり悩んでやるだけやってみたい時期は来ていたのだろう。私はまたその気になった。漠然とした願いが仲間のなかで言葉となり、具体的な行動となり、一九九四年四月にNABA独自の事務所兼ミーティング場をもつことに連なった。発足から七年後のことである。「お金?どうにかなります。皆で稼ぐんです」と、先生や当時お世話になっていた方々へ独立を宣言した。その時点では、「皆」の中に「先生」もちゃっかり頭数に入れ当てにしていたので、今思えば自立と言うにはかなり怪しいものだった。それでも独立・移転のお披露目として「第一回NABAフォーラム」を盛大に聞いた。本書第一章は、その記念の配付物にとお寄せいただいた原稿から収載した。
それからまた約一年、先生は「このままではNABAはつぶれてしまう。今度新しく関所する場に一緒に来ないか」と誘って下さった。先生にかなり依存していたにもかかわらず、赤字続き。助成金の申請も出したばかりで、通るかどうかもわからない。周囲の識者のほとんどが「一緒についていった方がいい」との判断だった。私(たち)は迷いに迷い、当然意見は分かれ、それぞれが個別に選択していった。残った仲間たちでその年末にものすごい勢いで作り、年明けと共に発行したのが本書のもとになった『NABAニューズ・レター』である。私たちはあのとき引かれそうになる後ろ髪を断ち切りたいがために、何かを求め大急ぎで声を上げ、他に駆け出して行ったのだと思う。
他の自助グループやそこに関連する人たちとの出会いや分かち合いで、ときには辛く厳しいこともあったが、その繰り返しが私たちを成長に導いてくれた。さまざまな場で摂食障害を私たちも語り、症状そのものはともかくとして、根底にある「生きづらさ」に共感する人たちがいてくれた。「症状がないだけで、ないから気づかなかった自分の怒りや寂しさに、やっと気がつくことができた」と言ってくれる人も多かった。その思いを書きとめて、NABAにお手紙をくれた人がいた。また、ともすると私たちも仲間同士狭い価値観だけに閉じ込められそうなとき、たくさんのこうした人たちとのやりとりのなかで、生き方の選択肢が増えたり、多くの小さな逸脱の素晴らしさを知った。摂食障害を支援する人される人という一方的な関係ではなく、生きることや関係を対等に分かち合ってやっていける人々を実感するようになった。血縁や「親」的な関わりではないからこそ互いに尊重し、助け合える嬉しさや可能性を見出せるようになっていった。
『ニューズ・レター』は、摂食障害があってもなくても共鳴しあえる人たちの存在を信じることができたから聞き、私たちがありのままを少しでも語り、それが届く人に届けばいいという楽観性により、広げてくることができた場である。

こうした動きや流れのなか、NABAはいよいよ本当の意味で「先生」と離れてやっていけるか問われる時期を迎えた。NABAを仲間同士でやっていきたいという姿勢を、一層明らかに一示す必要をヒシヒシと感じていた。「NABAも自助に」と言う割には、はなから先生自身はそんなつもりがなかったんじゃないかと、疑いすらもった。「先生の所にとどまる気があるなら」あるいは「離れる気があるなら」の条件付きで、「一緒にやっていこう」「助けてあげよう」といった類いの言動や雰囲気をもっ人たちにも、複雑な思いでウンザリしていた。だが誰かの手によって与えられるだけの、どこかの「空気の濃い鳥かご」にまた入る気はなかった。NABAは先生が生んでくれたのは事実だ。この親のもとに生まれたこと、育てられたことを誇りにして、成長したい、大人になろうとしているのに、いつまでもNABAという名前の代わりに「斎藤先生の所のグループ・娘さん」扱いで呼ばれることも本当に嫌だった。私などは「子供は親を選べないんだよ」「親の名前はもうじゃまだよ」とさえ思っていた。何よりもこうした援助をめぐるあれこれ、周囲の思惑に振り回され、一喜一憂している私たちがNABAを自助グループと名のり、仲間同士で真の自己肯定感や自尊心など育てていこうなんて、ちゃんちゃらおかしいことだった。先生は私たちに症状で訴えるばかりでなく、しっかり言葉や態度で表現しろと教えてくれたではないか?なかでも怒りの感情を大切に、どう見ても器用とは思えない先生自身が、怒りを原動力にすることを身をもって私たちに示してきでくれたはずではないか引そう、私たちはあの状況に怒っていた。そしてより私たちらしい居場所を作っていこうと決心した。「たかが」摂食障害者は「されど」になり、更には「さすが」になるのがNABAの摂食障害者魂の成長であろうと、またまた意気込んだ。私たちは「お世話になりました。これからは先生だけでなく今まで出会ってきた人や、新たな人とのつながりを大切に、私たちでやっていきます」と告げた。今後の実質的・具体的なことまでお伝えしたことで、きっと長くなるであろう別れの決意は届いたと思う。「いいんじゃない。好きにおやりなさい」と、先生は拍子抜けするほどあっさりこたえてくれた。先生が私たちに「さよなら」を言うことを教えてくれたし、「さよなら」を私たちから言わせてくれたと理解している。
その後いよいよ私たちは、以前は切実に悩まずにすんださまざまな現実の問題である「お金」やら「人との関係性」やら「ジェンダ1やセクシュアリティ1」やら、更にNABAのクローズド性を守りつつ、別にオープンな場を設けていくことなどに、揺らぎ揺るがされ揺らがせて、悩み悩まされ悩ませて、あっちにぶつかりこっちに助けられ、フン転がしのフンのように転がってきた。その様子を特集したのが、本書の第三章「揺らぎ四連発」である。

本書を作るにあたって、「一般読者も含めてメッセージがわかりやすく伝わるように」「本が売れ財政難のNABAを助けるために」と、全体の構成や原稿の選択について、配慮や工夫をするようアドバイスをいただいた。しかし私たちは結局、前述の第一章を「ニューズ・レター前史」として一番最初においた。その後の章立ても原稿の列挙も、一九九六年一月発行第一号から二000年一二月発行第六O号までを流れのままに沿って構成した。収載する原稿については、この期間『ニューズ・レター』に掲載されたすべての原稿を、東京のNABAに来所するメンバーの自薦・他薦による「原稿選定委員」一六人に目を通して選んでもらい、推薦の多い物から順に選択した。ただし特に第三章に限っては、今後も引き続きメンバーや読者の皆様にもシェア・ご一考いただきたく、当時収めた原稿のすべてを掲載した。なお、原稿の筆者である一部の方から「当時と今の自分は考え方も状況も随分違い、そのまま自分のものとして出すのは抵抗がある」という声もあった。だが仲間の推薦順によって収載作を選んだことを考慮し、また当時の雰囲気をそのまま伝えるため、大幅な修正や追記としての加筆はご遠慮願った。また表題に「テレフォン・メッセージ」とあるものは、その詳細内容は巻末をご覧いただくとして、もともとは収録テー。フの原稿なのでそのときの語り口調や言葉を極力そのまま活かした。
「ニューズ・レタl』は、誰でも参加できるNABAの紙上オープン・ミーティングの場として位置づけている。読み手も書き手も立場や肩書きに関係なく、「私」が「私」で出会い「私の思うこと」として分かち合えることを第一の目的とし、目指している。非難・噂話・中傷・説教などで故意に人を傷つけようとしない限り、個々人が個々人として、その思いや語りが受けいれられる。完壁さで「これしかない」とか白黒思考の二者選択で「どっちがいいか悪いか」を問うのではなく、まさに「いいかげんに生きよう」の実践の場である。よって本書に収載されている原稿も、NABA全体や摂食障害者を代表した、またNABA全体や一個人で支持した意見を載せている訳ではない。もちろん、このまえがきも同様で、私なりに今ここで語れる精一杯の「あのころのNABA物語つるもも篇」としたい。本編からこれ以外の物語があることも、読者の皆様にくみ取っていただければ幸いである。そしてそれ以上に、今後もより多くの立場の方々からの物語がNABAに寄せられ、NABAも『ニューズ・レター』も、更にさまざまな物語がつむがれる場として成長していくことを祈っている。

 

 

二OO二年二月二八日
NABA 鶴田桃江